[手紙]第二章
〜邂逅〜

人の死というのは、時間を早く進めてしまうものなのだろうか。
気が付くと関羽が亡くなってから、早三月余りが経とうとしていた。

義兄の葬儀の後しばらく部屋に閉じこもり、電話や来訪にも一切応じずに毎日、不規則に寝たり起きたりしながら
ただぼんやりと無気力に、何かの折に触れてはひたすら泣くばかりの日々を送っていた張飛だったが、日が経つに
連れて音楽を聴いたりテレビを見たりとそういった事には興味を取り戻し始め、友人たちからの電話にもようやく少しずつ
応じるようになって来て、表面上は立ち直って来たかのように思われていた。

だが、それが間違いであった事に気付いたのは、それから間もなくの事であった。
連絡をくれる友人は殆どが故郷の河北に住んでそれぞれに仕事も持っており、張飛がやっと立ち直ってきた
ようだと感じてからは電話を掛けてくる回数も減り、勿論香港まで直接訪ねて来る事は一切無くなったので、
必然的に張飛は同じ街にいて勤め先も判明っており、連絡の取り易い馬超にだけ自分からも連絡を寄越すように
なっていた。

そして、その時はある日突然訪れた。
『・・・・・・馬超・・ォ・・・・・兄貴は・・・・・・・、関羽は何処に・・・行ったんだろう?・・・・・・今日、兄貴の誕生日、
なのに・・・、どうして・・・・・・あいつ、帰って・・・・来ないのかな・・・ァ・・・・・??』
そろそろ閉店の準備を始めようかと思っていた頃に馬超の携帯に着信があり、客もいなかったのでそれが
張飛からのものである事を確かめてから電話に出た途端、その耳に飛び込んできたのはシクシクと泣きじゃくり
ながら義兄の行方を案じる張飛の声だった。
カウンターの傍に置いてあるカレンダーを見遣ると、今日は六月二十四日。
生きていれば三十二歳になる筈だった、関羽の誕生日だった。
「・・・・・?・・・・・・・・張飛?・・・・・・・   ・・・・何、言ってんだよお前・・・・・・・関羽さんは、もう・・・・・・
・・・   もしかして・・・・・・お前、酔ってる・・・・?酒、飲んだか・・・?」
最初は思わず彼の言う事を否定しようとする言葉を返したが、馬超はすぐに張飛の様子がおかしい事に
気付く。
嗚咽に震える声の合間に聞こえてくる吐息は泣いている事もあったがはっきりと荒く、言葉尻も何処か間延びした
感じでそれは丁度、酩酊状態の酔っ払いのようだった。
関羽の死後言われようの無い虚無感に襲われ、毎晩夢見も悪くてろくに眠れない夜が続いていた張飛は、
かつて義兄への願掛けの為にと一切を断ち、そのままになっていた酒にも最近になって再び少しずつ口を
つけ始めていた事を馬超も知っていたので、もしかすると彼は今日が亡き義兄の誕生日だと気付いて辛くなり、
急激に度を越した酒を煽って、前後不覚に陥って一時的に事実の正しい認識が出来なくなっているのでは
ないかと思っていた。
『・・・・・   ・・・・・・酒・・?・・・・ンン・・・少し、飲んだかな・・・ァ・・・  ・・・・・判んねェ・・・・・・・・・
・・・・・あァ・・・・・・・・    何か・・ァ・・・   ・・・ふわふわ、してるゥ・・・・・  ・・・何だろォ、全部、ぼんやり・・』
馬超の問いかけに答える張飛の言葉は段々不明瞭になっており、しかも先ほど義兄がいないと訴えて
泣いていた事さえもう忘れてしまったようにその続きを口にする事は一切なく、次第に言葉はゆっくりとそして
緩慢になっている。
「・・・張、飛・・・・・ どうした、お前・・・・・・何かおかしいぞ?!・・・・・・電話、このまま絶対切るなよ?!
理解ったか、理解ったなら返事しろ、・・・おい!」
『・・・・・・・・・・・    ・・・・ン、ン・・・・・・       ・・・・・・・・・・』
少し間があってから何とか張飛は答えたが、ゆっくりと深いものに変わった吐息に混じってようやく発せられた
返事の直後にガシンと物音がし、その後聞こえた最後の声はもはや遠かった。


「・・・・・張飛、張飛・・ッ!!」
馬超が張飛の部屋に到着したのは、それから十五分余り経ってからの事だった。
幸いにも入り口の鍵は開いており、日が落ちて真っ暗な部屋に入り手探りに明かりを点けるとすぐに、
バスルームでTシャツとトランクス姿のまま、意識を失くしてぐったりしている張飛の姿を発見出来た。
しばらく直接会うことは無かった彼は最後に見た時より幾分も痩せたようで、その傍には複数の医院の薬袋と共に
既に中身の大半は押し破られて無くなっているシートと白い錠剤が散乱しており、数ある中国酒の中でも著しく
度数の高いものの瓶も一本、殆ど空になって転がっている。
(・・・・・・なんて、事を・・・・・・・・張飛、お前・・・・・・・・・)
すぐにまだ息があることを確かめ、無我夢中で救急車の要請をしながら馬超は張飛が一体何をしたのか、
その場の状況からほぼ、把握し始めていた。

多分恐らく、張飛は決して癒えない悲しみに耐えかねてとうとう衝動的に自殺を図り、一気に大量の薬と
強い酒を煽って一種の麻薬的幻覚状態に陥って、そのまま昏睡へと墜ちていったのだろう。

目の前にある余りにショッキングな状況に思わず、両目には怒りを通り越した涙が滲んでくる。
その胸の中にあるものは、彼をたった一人でこの世に置いて逝ってしまった関羽への、言葉。
助けて欲しいと願う、想い。

(・・・・関羽さん・・・・・・・どうか・・・・・張飛を助けて下さい・・・・・・   ・・・・・あなたは、まだまだもっと・・・
張飛の傍に、いてやらなければならない人だったのに・・・・・・・・・・こいつ、こんなにもあなたがいない事に
苦しんでるのに・・・・・・   ・・・・・せめて、せめて夢の中でだけでも・・・・・・張飛に会ってやることすら・・・・・
もう出来ないんですか、あなたは)

関羽が亡くなった事自体は、決して責められるものでは無かったかも知れない。
本人だってどんなにも回復を信じ、希望を持って必死に生きようと病に冒された命と闘い、張飛の傍に
いてやりたいと頑張っていた事実は馬超自身も時折、張飛から聞き伝てにするだけだったがちゃんと知っていた。
だが不幸にも彼の想いは天に届かず、生きる事が叶わなくなって旅立ってしまったその心がどれほど無念だったで
あろうという事さえも理解っていた。

でも、余りに深すぎた悲しみに心を蝕まれ、亡き義兄の誕生日に自ら命を絶とうとした親友の姿を目の当たりにした
今は、彼に対して恨み言の一つでも言わなければ耐えられなかった。

―――――少なくとも、もし今もここに関羽が元気でいれば、いや、例え未だに重い病気を抱えた身体であったと
しても彼が生きていてくれさえすれば、張飛は今も強く、ただ前向きに頑張っていられた筈だった。
きっと今日だって、ささやかでも誕生日祝いをして、幸せな時間を感じられていただろう。
間違ってもこんな風に大切なその命を自ら投げ出そうとする事だけは、決して無かった。


その後、到着した救急車で病院に緊急搬送された張飛は思った通り相当量の睡眠薬を服用し、飲んだ酒の影響で
薬の効果が倍加してかなり深い昏睡状態に陥ってはいたが、幸いにも発見が早く服薬してから余り時間が経って
いなかった事も功を奏し、胃洗浄をして薬を全部吐かせてしまうと何とか一命を取り留めることは出来た。
ただ、自分の若さと体力に任せて義兄の入院中からずっと無理な生活を続け、彼の死後は塞ぎ込んで荒みきっていた
張飛の心の片鱗を垣間見るように見た目にも明らかに以前より痩せた事が伺えた身体の栄養状態は悪く、内臓も
弱っているのでしばらくは集中治療室で手当てを受けた上、当分は入院が必要だと告げられた。

一緒に付き添ってきた馬超は、張飛が病気で入院していた義兄の世話の為に昼夜を惜しんで世話と仕事に明け暮れて
いた事や、死別してからはずっと精神的に落ち込んで塞いでいた事、それから今日がその亡くなった義兄の誕生日であり、
他に家族はいないらしいという事など、知り合ってから今日までで自分が知っている限りの情報を全て医師に伝え、宜しく
お願いしますと頭を下げて、一旦病院を後にした。
病院を出る前、ほんの僅かな間だけ窓越しに見せてもらった友は静かに、蒼白い顔をしてベッドに横たわっていた。




張飛は、眠っていた。
とても冷たい空気を感じ、目蓋を上げるとそこはひんやりと寒く真っ暗な、闇。
(・・・・ここは、何処だろう・・・・・・・・?)
何が起こったのか思い出そうとするが頭の中はぼんやりと霞が掛かったようで何も思い出せず、
また、冷たい地面から身体を起こそうとしても、動けなかった。
(・・・何なんだよ、これ・・・・・・)
急に大きな不安に襲われ、訳も解らずにただ、見上げている闇の中に何度か視線を彷徨わせ、
また目を閉じる。


『・・・・・・・・張飛』
突然、聞き覚えのある優しく凛と響く、声が耳に届いた。
(・・・・・・兄貴?)
間違いない、これは関羽の声だ。自分の心が、そう答える。

再び目を開けると自分の周りは白く仄明るい光に照らされ、目の前にはどんなにも逢いたかった義兄の顔があった。
その姿は元気だった頃のままで、最後に着せて送ったあの服装で優しく、微笑っている。
気が付くとさっきまで硬く冷たい地面に横たわっていた筈の自分は彼の膝枕にいた。

(兄貴・・・・・・!)
呼びかけようとするが、何故か声にならなかった。身体も重くて、動く事はやはり出来なかった。
『・・・・おいで』
でも、関羽があの優しい表情でそっと張飛の身体を引き寄せると急に身体は軽くなり、張飛はされるがまま
義兄の腕の中に包み込まれる。
(・・・・・・ああ、あったかい、な・・・・)
久しぶりの彼の腕の中は、温かかった。懐かしい匂いがした。彼の自慢だった長く綺麗な髭が自分の頬を撫でる
感触が、くすぐったかったが嬉しかった。
ぎゅっと義兄の身体に縋り付き、思わず涙が零れる。
『・・・・・お前に逢いたかったよ・・・・・・張飛・・・・・・』
耳元で聞こえる、大好きな義兄の声。

(・・・俺もだよ、逢いたかった・・・・・寂しかったよ、関羽・・・・・・もうずっと、こうしていたい・・・・・・このまま
一緒に・・・連れてって、くれるんだよな・・・?また、一緒に・・・・・いられるんだよな・・?)
張飛は大好きな義兄に会えた無上の喜びに浸りつつ、何をしたかは今はもう思い出せないが、自分は
死んでしまったのだろうと考えていた。
だから、こうして再び関羽に会えたのだと。
彼は自分を迎えに来てくれたのだと・・・・・思っていた。

『・・・・・・・・違うんだ』
でも一言も声は出せないのに心で考えている事が全部、関羽には直接伝わっているようだった。
『わしはな・・・・・お前に、生きる力を・・・・与える為に、来たんだよ・・・・・・   お前に寂しい想いをさせてしまって・・
本当に・・・・・・済まなかった・・・・・・・    ・・・・・・もっと早く・・・・・・会いに来てやれれば、良かった・・・・・・・
そうすれば、こんなにもお前を苦しませる事は無かっただろうにな・・・・・・本当に、済まなかった』

そう言った義兄の目からはつと涙が零れ、胸に抱いている張飛の頬に落ちる。
綺麗だけれど寂しく辛そうな、涙。彼がこんな風に泣くのを、かつて見たことがあっただろうか。

その涙を見た途端、張飛の脳裏に義兄の死後ずっとまともには眠れない夜が続いており、そんな中で義兄の
誕生日を迎えて祝う相手がもういない事実に耐え兼ね、しばらく前から医院に貰いに行っていた睡眠薬を衝動的に
飲んだ上で強い酒を一気に煽り、自らの命を絶とうとした自分の行動が甦る。
(そうだ・・・・・俺・・・・・・・・・・死のうと・・・・・思ったんだ・・・・・・・・   ・・・・・生きてるのがもう、辛くて・・・・・
今日、お前の誕生日だったのが寂しくて、・・・・お前がいないのがとてもとても辛くて・・・・死ねば、兄貴に逢えると・・・
思ったから・・・・   ・・・・・・・お前のいる場所に、行けると思ったから・・・・・・)
そう思い出した途端関羽は張飛の身体を強く抱き締め、その愛しい存在を何度も確かめるように頬擦りをして、
それからまた、言葉を発する。
『張飛・・・・・・これから言う事を、よく聞いておいて欲しい・・・・・・・・・自ら命を絶った魂は、決して天空(そら)には
昇れず・・・・来世でももう二度と、巡り逢えなくなると・・・・決まっているんだ・・・・・だからわしは、とても怖かった・・
もし、お前があのまま命を落としてしまっていたら・・・・・・・わしにはもう、どうする事も出来なくなっていたからな・・・
・・・・・でも、お前はまだ生きてるんだよ、張飛・・・・・・お前にはまだまだ、残された時間がたくさん、あるんだ・・・・
お前は生きる事を許された命を持っておるのだから・・・・だからどうか・・・・・・・・もう二度と、こんな馬鹿な事は・・・・
しないでくれ・・・・・・・それを、どうしても伝えたかった』
言い終えた関羽の瞳からは、再び涙が流れて落ちる。

義兄の言葉は、張飛の心に激しく強く、響いた。
ずっと未来まで、長く生きていく事を許されている筈の自分が衝動に任せて今にも自らその命を捨てようとした事に、
関羽は深く心を痛めていた。生きていて欲しいと願う以外何も出来ない自分に、苦しんでいた。
自分が彼の傍からいなくなった事が原因だと判明っているのに、それが自分の運命ゆえにどうすることも出来ないのが
余りに辛かった。

(・・そう、だったんだ・・・・・   ・・・・・・本当に・・・・・・俺、馬鹿だった・・・・・・心配、掛けた・・・御免よ、関羽)
そっと手を伸ばして義兄の涙を少し拭ってやると関羽は潤んだままの優しい瞳を見せ、自分の手で残りの涙を拭って、
頷く。
『・・・・・・・・・・・・・・本当はちゃんと生きておるお前の前に、既に世におらぬ筈のわしがこうして現れることは、もう・・
二度とは出来ぬだろうが・・・・お前がわしを思い出してくれる限り、わしはいつでも、お前を見守っておれるから・・・・・
・・・いつかお前が本当に旅立つ日を迎えるまではどうか・・・・・・・・・強く、生きていてくれ・・・・・・どうしても辛い時は、
わしの声を、思い出してくれ・・・・・・お前が胸の中でわしの言葉を覚えていてくれれば、きっとまた何処かで、わしらは
必ず、逢えるから・・・・・』
そう言って関羽は張飛の身体をもう一度しっかりと強く抱き締めてくれ、入院して以来もう一度も交わす事が出来なかった
優しいくちづけを一つ。
―――――すると今まで何処か穴が開いたように寂しく辛い気持ちばかりだった張飛の胸の中には温かなものが
いっぱいに満たされる。
そして、凄く気持ちが良くて眠くなってくる。

(・・・あァ、凄く・・・温かい・・・・・・・・・・気持ち良いな、眠い・・・・・・・・・)
優しい義兄に抱かれたまま、張飛は少しずつ、微睡み始める。
こんなにも気持ち良くて、何の不安も無くただ無心に眠いと最後に感じたのは、いつの事だっただろう?
『・・・・眠って、良いよ張飛・・・・・・ずっと、見ててやるから・・・・・・わしが傍にいるから、安心してお休み』
腕の中にある義弟の額にもう一つそっと優しいくちづけをして、小さな子供のように眠りに落ちて行く彼を優しく、見つめる。
張飛が眠りに落ちる最後の瞬間に見た義兄の表情は、とてもとても、優しかった。



「・・・・・・・―――――――――――」
長い長い眠りからようやく醒めて重い目蓋を上げるとまだぼんやりしている視界に見えたのは少しくすんだ白い天井と、
銀色のスタンドに吊り下げられ、ポタポタとゆっくり透明な滴が落ちる細い管のついた、点滴の瓶。
頭の傍では四角い箱のような機械がピッ、ピッと規則的な音を刻むのが聞こえ、やがてザワザワとした人の声や物音も
次第にその耳で認識出来るようになってくる。
自分は病院にいるのだと理解るまで、そう時間は掛からなかった。
(・・・・・・・・・あァ・・・・    ・・・・夢、だったんだ・・・・・・・・・・)
僅かな再会を果たした最愛の義兄の姿は今はもう、何処にも無かった。
ただ、張飛の身体にはずっと抱いていてくれた関羽の温もりがはっきりと残っているようにも感じ、ただの夢だったと
片付けるには余りにもそれは生々しく、妙に現実味を帯びた不思議な体験だった事には間違いなかった。


「・・・・・・張飛さーん、気が付かれましたかー?・・・・私の声が聞こえますかー、顔が見えますかー・・・・分かったら、
返事をしてくださーい」
そのまましばらくぼんやりしているとそのうち、巡回に来た看護師が張飛の覚醒に気付いて声を掛け、意識の状態を
確かめて来たので張飛は半分無意識に頷いて答える。
するとその後少しして今度は医師が現われ、瞳孔や脈拍など一通りの診察を行なって何処かへ行ったかと思うと、
ほんの一〜二時間後には張飛は点滴のスタンドが据えられたままのベッドごと、病室を移される。

夢の中で関羽に会ったのは僅かな時間だったのに、実際彼は実に十日もの間、昏々と眠り続けていたようだ。
眠っていた十日の間に点滴による栄養剤の投与で弱っていた身体の状態は僅かながらも回復し、意識も取り戻した
のでそれ以上集中治療室にいる必要はどうやら、無くなったという事らしかった。

「・・・・張飛・・ッ・・・・・・・    ・・・お前、もうッ・・ホントに馬鹿な事、しやがって・・・・ェ・・・・・・・心配、
したんだぞ・・・?・・俺、もう・・・・生きた心地がしなかったじゃ、ねえかよ・・・・・・馬鹿野郎」
病室に移されてほんの数時間後、病院からの知らせを受けて駆けつけて来た馬超はベッドのリクライニングを
少し起こしてもらい、そこに横たわったまま自分を見て僅かに笑みを見せた張飛の姿に、思わず半泣きで少々
乱暴な言葉で声を掛け、それからそっと身体を抱いてくれる。
「・・・・御免・・・・・・・・    ・・・・・・御免な、馬超・・・・・ウン・・・、俺本当に・・・・馬鹿な事、しちまった・・・・
・・・・・・・・    ・・・・・・・兄貴にな、逢ったんだ・・・・・・やっぱり、兄貴はとっても・・・優しかった・・・・・・・
・・・・・・・・・・俺、もう・・・・・・・・・・・兄貴がいない事を悲しいと思うの、止める事にしたよ・・・・・・・・・・・・・・・
兄貴はきっと、今も何処か遠くにいるんだって・・・・・・・そう、思う事に決めた・・・・・・・・・・・・・・・俺がいつまでも
泣いてばかりじゃ・・・いけないんだよ、な・・・・・?・・・・・俺が兄貴の事を忘れないでいれば、いつかまた、必ず
逢えるんだって・・・・・関羽はそう、言ったから・・・・・」
それは決して関羽のものとは違うけれど、友として馬超が与えてくれた優しい温もりは張飛の心にまた別の安らぎを
与え、まだ点滴を付けられたままの彼は空いている方の腕で親友の身体を抱き返し、ようやく辛かった悲しみを
断ち切る決意をそっと、口にする。

"義兄と逢った"
張飛のその言葉を聞いた馬超は思わず身体を離して怪訝そうに親友の顔を見遣るが、そこにある張飛の少し潤んだ
瞳はかつて、関羽の愛情を一杯に受け、何よりも幸せそうだった頃と同じに深く輝いていて、その言葉は紛れも無く
真実なのだと、受け入れる。

彼はようやく、悲しみを乗り越える時を迎えられたのだと、感じる。

「・・・・・そっか・・・・・・・・関羽さん、会いに来てくれたんだな・・・・・・・良かったな・・・・?・・・・・そうだよ、それで
良いんだよ、張飛・・・・・・・・関羽さんはもう、遠い場所に行ってしまったけど・・・・・あの人は今もずっと、お前を見て
くれてるよ・・・・・・どんなにもお前を大切にしてくれた人だもんな、だからいつかはまたきっと、必ず逢える日が来る・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・本当に、良かった・・・・・・・・・」
張飛の言葉に同調し、励ます言葉を返しながら、馬超は心の中で関羽にそっと、感謝と謝罪の気持ちを捧げ続けていた。
(・・・・張飛を助けてくれて、本当に有難う関羽さん・・・・・・それに、済みませんでした・・・・・どうか、これからも張飛の事を
見守ってやっててください・・・・・・・お願いします)

"ああ、理解ってるよ・・・・・馬超くんも、張飛の事を宜しく、頼む・・・"
窓辺に立ち、優しい表情でそう答えた関羽の姿と声がほんの一瞬、馬超にも感じられたような気がした。



それから張飛の身体は少しずつだが確実に良くなって行き、例え夢であったとしても大切な義兄の言葉でその心に
積もっていたものを全て取り払って生きる意欲を再び取り戻せた彼は精神的にも非常に安定した状態を保っており、
意識を取り戻して以降からは以前のように悲しく怖い夢を見て眠れなくなる事も無くなって、やがて彼はひと月半ほど
入院して体調はすっかり回復し、痩せてしまっていた体もほぼ元に戻ると退院が許可され、再び自宅に戻る事が出来た。

部屋は、無人だった間も何一つ変わらないままで、未だ部屋中に残る関羽の存在はもはや悲しみではなく、全てが
大切な思い出として彼を迎えてくれた。

(・・・・ただいま、兄貴)
退院した日、張飛はまず食卓として使っていたテーブルの上に飾ってある義兄の遺影に胸の中でそっと声を掛け、
それからもうずっと前に枯れたまま忘れていた、写真の傍に飾ってある花瓶の花を帰り道に花屋で買って帰った新しいものと
交換して、掃除もしていなくて埃ってしまっていた写真立てのガラスを綺麗に拭いておく。
(俺、もう泣かないよ兄貴・・・・・    だって、兄貴は今もちゃんと何処かにいるんだもんね・・・・・・・・だから、寂しくない。
今日は、暑いな・・・・・・病院にいる間に外はすっかり、真夏になっちまってたよ・・・・・・兄貴がいる所も、今は暑いのかい?)
あの時夢の中でしたように、義兄に話したい事を自分の心の中だけで語りかけてももう答えが帰って来る事は二度と無いが、
そうすると何故かとても、気持ちが落ち着いた。

「・・・・・おーい張飛、帰ってるか」
程なくして、軽いノックと共に入り口のドア越しに聞こえてきたのは馬超の声だった。
「・・・・・・・やあ、馬超か?・・・・ああ、いるよ。ついさっき、帰ってきたところさ」
返事を返すと、鍵が掛かってはいない事を確かめて自分でドアを開けた馬超は親友の退院を祝って明るく、でもちょっと
済まなそうな表情。
「張飛、退院おめでとう。元気になって良かったよ・・・・・悪かったな、病院まで迎えに行ってやれなくて・・・俺も丁度引越しが
今日になっちまったもんだから・・・あ、これ退院祝いに持ってきたんだ、今ならまだ冷えてるから一緒に、一杯やらないか」
そう言って差し出したのは、梅酒の瓶。さすがに、元々少し酒乱の気があり、長期の不摂生で身体も著しく弱っていた張飛はもう
強い酒には口を付けない事を医師と約束していたが、中国の酒は度数も原料も幅広く、中には少し嗜む方が身体には良い
種類のものも沢山あるので、酒好きな張飛の為に馬超もせめて退院した今日くらい梅酒程度ならと気を利かせて持ってきて
くれたようだ。
「・・・おう、有難うな馬超。・・・・・いいや、別に気にしなくて良いよ。それより引越しはもう、良いのか?・・・退院したばっかりだから
力仕事はちょっとまだ無理だけど、手伝える事があれば俺も手伝うぞ?・・・・・・・はは、梅酒かァ・・・良いね、兄貴も梅酒は
好きでよく飲んでたっけな」
関羽も張飛に負けず劣らずの酒豪だったが、仕事が忙しかった都合で休日以外は敢えて強い酒を飲む事はせず、いつもの晩酌
も大抵、梅酒や山査子酒など、軽い果実酒の類が殆どだった。
「そっか・・・・じゃあ、これにして良かったな。・・・・・ああ、俺の引越しは気にすんな。荷物はもう全部部屋に入れたし、取り敢えず
寝る場所くらいはすぐに作れそうだから、後はまた追い追い片付けるよ。・・・・そうだ、これ俺の新しい住所。電話は手続きが
面倒なんでな、もう付けねえつもりだ・・・・まあでも、携帯持ってるから別に良いよな?」
関羽の事をごく自然に"もうこの場にはいない"事実を踏まえた過去形で口にしても普通にしていられる張飛の姿に安心し、そして
自分に対する彼の気遣いはやんわりと断りながら、馬超はポケットからメモを取り出して渡す。

実は、馬超はもう立ち直り元気になったとは言え、一人っきりで余りに辛い生活を送ってきた挙句自殺未遂まで起こした張飛への
心配は未だ頭から離れず、また、香港に来てからずっと住んでいたアパートは古くて部屋には簡易シャワーのような物しかなく、
正直な所勤め先からも遠くて不便だったので、思い切って彼は引越しを決めたのだ。
新しい住まいは、張飛の住む華公住宅から歩いてもほんの二、三分の場所にある割と新しいアパートで、狭いながらもちゃんと
バスタブのある浴室が付いているのに家賃は以前の所と殆ど変わらず、張飛の住まいにも近いので掘り出し物だと見つけてすぐに、
契約を済ませたと言っていた物件だった。

―――――ただ、引越しの理由の中で張飛に対する事だけは本人に言うと多分負い目を感じるかも知れないからと、「近くの方が
行き来しやすいから」という事だけ、彼には話していた。

「・・へェ、お前ん家ホント、ウチからすぐ近くになったんだなァ・・・・でもこっちなら前のところよりは店にも近いし、風呂もちゃんと
あるんだってな?・・・・・・お前嫌がってたもんな、前の部屋シャワーしかねえって言ってさ。良かったじゃねえか、良い部屋が
見つかって」
メモに書かれた住所が自分の住まいと番地だけしか違わないのを確かめ、ようやく少し笑顔を見せた張飛に馬超もふと笑む。
「ふふ、そうだろ?・・・・それにしても風呂付きで前と殆ど家賃は変わらねえんじゃ、まるっきり詐欺だよなァ前の部屋・・・・・まあ、
あっちは店には遠かったけど銅鑼灣の繁華街が近かったし、すぐ近くに飯屋とかもあって場所的には恵まれてたからな、だから
仕方無かったのかも知れないけどさ。・・・・・ああ、忘れる所だった・・・・・オーナーがな、いつからなら出て来れるか聞いといてくれって
言ってたよ」
張飛が用意して食卓の上に3つ並べたグラスに持ってきた梅酒の栓を抜いて注ぎ、一つを関羽の遺影の傍に添えてから椅子
―かつては義兄がいつも座っていた側―に座り、自分の分のグラスを手に取って梅酒の香りを楽しんでいる張飛に、元は張飛の
席だったもう一つの椅子に座りながら馬超はふと、聞いておくべき用件を思い出して切り出す。
「ン?・・・・ああ、そうだな・・・・取り敢えず退院したばっかりだからなァ・・・今日はまだ火曜だけど、ひと月半も入院してたから
何日かはゆっくりして身体慣らした方が良いって医者にも言われてるんで、キリが良いトコで来週の月曜くらいからにするよ。
兄貴がいなくなってから随分散らかしちまったから、部屋も少しは掃除とか、しなきゃいけねえしな」

馬超の言葉にふと部屋を見回し、自分の生活がどれだけ荒れていたかを思い返すように自嘲っぽくはにかんで、答える。
実は、やっと精神的に立ち直りを見せ、荒んでいた生活も元に戻さなければいけないと決心した張飛は退院が間近になった
頃馬超に相談し、丁度彼が辞めた後に入っていたアルバイト店員が別の仕事を見つけたということで辞めたがっており、
そんな事情も手伝ってか、馬超の口添えでまた、元のコミック店の店員に復帰する事が決まっていた。
関羽が遺してくれた貯金はこの三月の間に家賃やその他に引き落とされて幾分か減ってしまっており、更に今日退院の為に
清算した入院費の支払いにも使わざるを得なかったので、張飛は失ってしまった分を自分で働いて埋めようと、自分ひとりでも
ちゃんと生活を賄って、遠くで見守ってくれる義兄を安心させたいと、考えるようになっていた。

「おう解った、そしたら来週からって明日店に行ったら連絡しとくよ。・・・・・またお前と一緒に働けるんだな、嬉しいよ張飛。
また前みたいに、一緒に楽しくやろうじゃないか」
「・・・・・・ああ。そうだな・・・・・・・・・また、宜しくな馬超」
張飛にとっては、例え仕事に復帰して以前と同じ生活を取り戻しても、唯一つ決して元に戻らないものがある事は確かだった。
関羽はここにはもう、いない。決して逢う事は出来ない遠くへ、行ってしまった。

でも、自分の胸の中にはいつでも、彼の姿がある。彼が遺してくれた沢山の思い出もある。耳の奥には、夢の中で出逢った
義兄が「強く生きてくれ」と諭した優しく凛と響く声が、ちゃんと残っている。

"頑張るんだぞ、張飛"
優しく微笑う遺影の中の義兄が、そんな風に励ましてくれたような気が、した。



―――――第三章(終章)へ続く


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