「手紙」

張飛は一人、屋上で空を見上げていた。
もう三月だと言うのに長引く寒さはまるで真冬に逆戻りしたかのような感覚を与え、低く濁った空と
どんよりと湿った雲はまるで、自分の心を映しているかのようだった。

(・・・・・寒いな・・・・・・)
まだ冷たい風に革ジャンの襟を立てて引き寄せ、両手にそっと吐息を吹きかける。
そしてふと、大好きな優しい温もりを隣に求める。

でも、そこに人影は無い。
いつだって傍にあって、自分を優しく包んでくれた一番大切な人。


名前は、関羽。
今はもう、いない。


                               ******


もっともっとずっと先の未来まで楽しく、幸せでいられると思っていた二人の生活に突然の暗雲が立ち込めたのは、
新しい年を迎えたばかりの、一月のある日だった。

数日前、クリスマスの終わった頃から関羽は時々コンコンと乾いた咳をしていた。寝込むほどではなかったが、
少し熱もあるみたいだった。身体が丈夫な義兄にしては珍しいとは思った。

しかしその年の冬は稀に見る寒波の襲来で、ここ香港でも例年よりも格段に冷え込んでおり、風邪が流行って
いるので注意を、とTVのニュースは連日のように繰り返していたし、どんなに身体は丈夫でも決して病気をしない
人間など存在する筈は無く、だからたまには義兄が風邪をひく事があってもおかしくは無い、きっと会社か何処か
で感染ったのだろう、と張飛も特に大げさに心配はせず、軽く考えていた。

そしてあの日も関羽は相変わらずの体調のまま、いつもどおり出勤して行っていた。
さすがに何日もずっと微熱が続いたままで、張飛も少しずつ心配になり始めた矢先の事だった。


(ン・・・・・アレ?兄貴の車、ねェな・・・・・)
夕方張飛が帰宅した時、ふと見遣った駐車場にはいつもなら先に帰っている筈の義兄の車は無かった。
外から見上げた四階の部屋の明かりも、点いてはいなかった。

だが上がってみると朝、後から出掛けた自分が確かに閉めた筈の入り口の鍵は、開いていた。
不審に思い、様子を伺いながら部屋に入る。まさか、侵入者だろうか?

「・・・・・・・・只今、俺帰ったぜ?・・・・・・  関羽、帰ってんのか?いるのか・・?」
真っ暗な室内に声を掛けながら明かりを灯し、間もなく寝室のベッドの上でただぐったりと横になっている義兄を
見つけ、彼がいた事自体には安堵しつつも同時に、その様子にはひどく不安になり驚いて傍に駆け寄る。

これまで何日も微熱は続いていたが、昨日までは全くほぼ普通に、元気に生活していた筈だった。

「か、関羽・・・・?!・・・・・・おい、兄貴・・・・大丈夫か・・・・どうした、具合悪いのか・・・・?」
部屋の電気を点けて見ると、蛍光灯の明かりに照らされた義兄の顔色はひどく蒼い。

「・・・・・・ン・・・   ・・・・・・あァ・・・・・・お帰り、張飛・・・・・・   ・・・もう、そんな時間か・・・・   ・・・・・・・・・
・・・昼過ぎから、急に気分が悪くなって、・・・・・・  ・・・・・・・・・早退して、タクシーで帰って来たんだが・・・・・・
・・・・・・・・・ここに帰ってすぐ、二度ほど吐いて・・・・・、・・・・・それからずっと・・・・ウトウト、してた・・・」
明かりが灯された眩しさに少し眉間に皺を寄せ、声を掛けられてからやっと目蓋を上げた関羽はその時に初めて
義弟の帰宅を知って、自嘲気味な薄い笑顔を見せる。

しかし目は虚ろにぼんやりと潤み、身体も横たえたままで、起きられないようだった。
額にはうっすらと汗も滲んでいる。
手を当てると、はっきりと熱かった。明らかに、熱が上がっていた。

「ええ?!は、吐いたって・・・・?・・・ああ、熱もひどくなってるじゃねえかよ・・・・そんなに具合、悪かったんなら
何ですぐに連絡しねえんだよ・・・・・?!・・・今日なんか店は暇だったんだから、知らせてくれりゃあ飛んで帰って
来たのに・・・・こんな状態で何時間も一人で、辛かっただろ・・・?・・・とにかく、今から医者呼ぶからな、待ってろ」

少しずつ募り始めていた張飛の心配は、一気に最悪の状態で現れてしまった。
今まで知っている限り義兄がこんなに青い顔をしていた事は無く、体調を崩して吐いた事なども、一度も無かった。
とにかく、これは只事ではないと直感していた。

既に起き上がる事さえ出来ない様子の義兄を病院まで連れて行くのはどう考えても無理そうなので、張飛はすぐに
近所の医院に電話して救急の往診を頼み、それから朝出勤した服装のままだった関羽の衣服を緩め、水枕を用意して
宛がってやったりして出来るだけの介抱をし、医師が来るのを待った。
合間に計ってみた熱は、四十度近かった。
何日もずっと体調がおかしかったのに、無理をしていたのがやはり祟ったのだろうか。

自身も相当に頑健な身体を持ち、少々突っ張っていた高校時代に街の不良と喧嘩をして今、顔の両側に
残っている傷跡の怪我を負った時はさすがに少しの間入院したものの、内科的な病気で病院の世話になった
事はなく、ごくたまに風邪などを引いても薬局で売っている薬で済ませていたので病の知識なども皆無に等しかった
張飛は「自分で動けるなら重い病気じゃない、意識もちゃんとあれば命は大丈夫だ」と考える程度の判断力しか
持ち合わせてはいなかった。

だからこそ、微熱が続いてはいても会社に出勤し、家でも普通に過ごせていた義兄に敢えて受診を進めることを
しようとはせず、今も具合が悪そうでただ事ではないと感じる気持ちもあるとは言え、一先ず意識がはっきりしていて
会話も出来る状態にある所為か、張飛は現状の心配はしながらも心の何処かには妙な安心感もあった。
とにかく医師に診察してもらって体調不良の原因が突き止められ、ちゃんと薬などを貰えば義兄はまた、元通り
元気になるだろうと思っていた。


しかし、往診に訪れた医師によって、事態は自分が思っていたより遥かに深刻で急を要するものだと初めて判明った。
医師の要請で直ちに救急車が呼ばれ、関羽は担架で運び出されてすぐさま施設の整った大病院に搬送され、
そのまま緊急入院となった。

(・・・・・兄貴が・・・入、院・・・? ・・・・・・え、え・・?)
救急センターに運び込まれ、処置室の前で初めての経験にひどく動揺してただ困惑した表情で立ち尽くしていた
張飛はやがて医師に呼ばれ、義兄の病状についての説明を聞かされる。


関羽は、心臓に重い病を患っていた。


同時に詳しい病名や疾患部位など、一応細かい説明も受けたものの本来難しい話だった上、身体が丈夫なのが
自慢だった義兄が入院したというそれだけで既にひどく動揺していた張飛には、突然降りかかった心臓病という
事実は余りに重過ぎて信じられなかったし、俄かに受け入れる事も出来なかった。

ただ、義兄の病は実はもう、生命すら危ぶまれる状態まで悪化していたのだという事は嫌でも理解った。
気分が悪くなった時点で既に発作が起きていたのに帰宅して四階の部屋まで階段を登った事が追い討ちを掛け、
そのまま何の処置もせずに長時間放置された為一気に急激な容態の悪化が起こったのだと告げられた。

それでも恐らく関羽は年齢的にまだ若く、身体も人並み以上に大きく強い体力を備えていた事が幸いして、最悪に
近い状態でもちゃんと意識を保ち一命を取り留められたのだろうが、本当なら四階まで階段を昇りきる事など出来たのが
おかしいくらいであり、途中で倒れてそのまま死んでいた可能性さえ否定は出来なかった状態だった、と本来命を助ける
立場にある筈の医師がはっきりと言い切った。

それほど、深刻な状況だった。

更に、同居している"家族"同然の立場にありながら何故こんなになるまで放っておいたのか、彼を死なせる気だった
のか、と散々問い詰められた。
だから、確かに何日も微熱が続いていた事は知っていたが、本人が大丈夫だと言っていたからだと答えると、余計に
怒られた。
「本人の言葉を鵜呑みにするだけでは、一緒に暮らす家族としては余りに配慮が足りなさ過ぎる」
そんな事まで、言われた。言葉そのものは軟らかかったが、張飛にとってははっきりと家族失格だと言われたようにも
感じた。
十七年も一緒にいるのにそんな事も気付けず、みすみす義兄を死なせかけていた自分が余りに虚しかった。



「・・・・気分は、どうだい・・・?・・・・・・随分大変な事に、なっちまったな・・・・兄貴・・・・・御免な、俺が、ちゃんと・・・
もっと気ィ、遣ってやれてたら・・・・    ・・・・・・本当に、御免・・・・・・・」
病院に運ばれて数時間後、集中治療室の中。本当はとても面会が出来る状態ではなかったが、患者本人である
関羽が義弟に逢いたいと強く望んでようやく特別に許可された、僅かな面会時間。

酸素マスクを着けられ、身体にびっしりと点滴の管やモニタ類を繋がれて、心臓に負担をかけないようにとリクライニング
されたベッドにぐったりと身を任せ力なく横たわる義兄の手を握り、張飛は自分の気遣いが足りなかった事をひたすら
悔やむ。

重い病気や怪我をした患者は、集中治療室に入ると言う事は知っていた。そして、その場所をアルファベットでICUと
表すのだと聞いた事もあった。
でも今義兄がいるのは、最初が「I 」ではなく、「C」の集中治療室だった。
香港に住んでもう六年になるが、未だに日常的に目にする最低限の英語以外は殆ど解さない張飛にとって、その
アルファベットの意味がそれぞれ何を表すのかは、知らなかった。
だが自分の数少ない知識とは違う名前の場所にいるということは、それだけ関羽には特別な、或いは専門の治療が
必要なのだという事だけは何となく理解し、義兄の病の深刻さを、改めて実感する事でもあった。

「・・・・張飛・・・・・・・・・・・そんなに・・・・・・・・自分を責めるな・・・・・・・・・何も、わしがこうなったのは決して・・・・・
お前の所為では・・・・・・・ないのだから・・」

自分が病床に着いた事を自身の所為だとばかり強く思い込み、余りに落ち込んでいる様子の張飛を何とか安心させ、
彼の上に重く圧し掛かっている罪の意識からは少しでも開放してやりたくて、関羽は辛いながらも精一杯優しい表情を
浮かべ、傍にいる義弟に言葉を返す。

熱はまだ高く、声も囁くような弱々しいものだったがその言葉は張飛の胸には何よりも強く、響いた。
そして、点滴によって投与されている薬の影響も加わって未だ虚ろではあるものの、深く澄んだ黒い瞳は真っ直ぐに
張飛の方を見詰めている。

本当は急激な体調の悪化に彼自身戸惑い、挙句に重い心臓の病だと告げられて、きっと計り知れないショックも
受けているであろう病身の義兄が、自分を思いやって掛けてくれた言葉を噛み締め、そしてその瞳を見ていると
張飛の心をガチガチに縛っていた罪の意識は次第に涙となって込み上げて来て―――堪え切れなくなって
義兄の手を離すとふと俯き、後から後から溢れ出す涙を膝の上で握り締めた手の甲にポツポツと零しながら、
声を押し殺して肩を震わせる。

子供の頃から喜怒哀楽の感情表現が非常にストレートで、怒りや悲しみでさえその場で全部吐き出して決して
自分の中に溜め込むという事を一切して来なかった張飛は、義兄の突然の病に計り知れないショックを受け、
深く傷つき戸惑った心はどういう感情を何処へ吐き出せば良いのか理解らなくなり、鬱積した色んな思いは
結局、自身への多大な重圧となってしまっていた。

「・・・・御免・・・・・・・・・    ・・・・・・御免よ、兄貴・・・・・・・・・俺、お前の体調がおかしいのは、知ってたよな・・・・
でも、すぐに医者に行こうって俺から言うべきだった事が・・・・気付けなかった・・・・・俺が、いい加減に考えてたから、
兄貴・・・・こんな重い病気に・・・・なっちまってた・・・・・・・医師(せんせい)に"お前を死なせるつもりだったのか"って、
怒られて・・・・・・・・・頭の中全部、真っ白になって・・・・・・・・・・・・・・凄く・・・・・・・怖かった・・・・・・」

まるで小さな子供のように泣きじゃくる義弟の姿は関羽にとっては何処か痛々しく、でも同時に凄く愛おしくて、彼は
病床に身を預けたままゆっくりと張飛の方へ手を伸ばし―――少し茶色がかったクセだらけの長い髪に触れて、
それをそっと撫でる。

「・・・・・・・わかってるよ、張飛・・・・   ・・・そもそも・・・・  ・・・・無理をせず・・・・・・・自分でちゃんと、早く・・・・・
・・・・・医者に、診てもらっておれば・・・・・・・良かった事・・・・・・なのだから・・・・ ・・・・  ・・・・・・・・お前を、
苦しめてしまって・・・・・・本当に、済まない・・   ・・・・・・・な、もう・・・泣くな・・・・?・・・・さあ、ほら・・笑って・・・・
・・・・・笑顔を、見せて・・・・・くれないか・・・・・?」
そうして発せられた、この世で一番優しい、義兄のいつもの慰めの言葉。

人一倍涙脆い張飛が何かあって泣く時、関羽はいつも必ず「笑顔を見せて」と言い、そして彼にそれを言われると
例え、どんなに辛くて泣いていても何処か気恥ずかしくなってつい、はにかんで照れ笑いを誘われてしまっていたので、
それはもはや張飛にとっては特別な存在になっていた、義兄だけが使える「魔法の言葉」だった。

特に今彼は病床にある事を思うと、その言葉はいつもよりずっと重く深く心に絡みつく。
関羽の気持ちに、応えなければならないと思う気持ちが働く。

俯いたまま張飛は服の袖で涙をごしごし拭い、その後グスンと鼻を啜り上げてから顔を上げて、息を吐きながら
精一杯、笑顔を作ってみる。
それはきっと傍目には、お世辞にも綺麗な笑顔ではなかっただろう。目は真っ赤に潤み、目の周りや頬も紅潮して
いて、おまけに顔中をグショグショに濡らして泣いていたので、それが乾いた跡はテカテカしている。
そもそも、笑顔自体引きつっていたかも知れない。

でも関羽には義弟のそんな笑顔は何よりも愛しかった。

「・・・・・・・そうだ・・・・・  ・・・・・・・・・やっぱり・・・お前は、そうして・・・・・・笑ってるほうが、良い」
そう呟いて義兄も満足そうに優しく静かに微笑い、それから間もなくゆっくりと眠りに就いた。
少しでも早く元気になりたいと願い、愛する義弟の傍に再び帰れる日が一日でも早く来るようにと願いつつ。

それから、関羽が治療室にいる間張飛は毎日店を抜け出して病院に通い、限られた面会時間には必ず
会いに行った。
やがて容態が一先ず安定し、一般の病室に移れると今度は時間の許される限りずっと傍に付き添って世話を
したいと思い、それまで働いていた昼間のコミック店のアルバイトは正直に理由を告げて辞め、病院の面会時間が
終わった後から働ける深夜のコンビニにその場を移して、毎日明け方に帰宅し適当な食事とシャワーを済ませて
二〜三時間眠ってから、面会時間の始まる頃に病院へ、という生活を送った。


「・・・・明日から、旧正月の祭りか・・・・・早いものだな」

入院から間もなく一ヶ月を迎えようとしていたある日、関羽は壁に掛かったカレンダーを見てふと呟いた。
何分最初の容態が極めて重かった事から、安静の為に入院後はずっと寝たきりの状態が続いていたが
療養の為の酸素供給もマスクからカニューレ(管)に替わり、少しずつ体力も付いてきて食事の時には
ちゃんと身体を起こし自分で取る事も出来るようになって、心臓疾患に起因する咳は治まっていなかったが
全身的には徐々に回復の兆しが見え始めて、交わす言葉もしっかりと、力強くなってきていた。

「ン?・・・・ああ、そうだな。・・・・けど、俺が今働いてるのは年中無休のコンビニだからな。別に祭りだからって
休みにはならねえし、だから、俺には関係ねえさ」
前のバイト先の仲間が気を利かせて一冊都合し昨晩届けてくれた、昔から好きなコミックの最新刊を読みながら、
張飛は素っ気無い言葉でそれに応える。

「・・・済まんな、張飛・・・・わしがこんな身体にさえ、なってなければきっと・・、今年もまた祭りに行って、お前と
一緒に、楽しめただろうにな」

言い終えてから僅かにコンコンと咳き込み、見せた表情は寂しそう。少し、痩せた顔。
張飛はコミックを閉じてサイドテーブルの上に置くと少し怪訝そうに眉を顰め、それから真っ直ぐに義兄の顔を見詰める。

「・・?・・・関羽、一体どうした・・・・?何、そんな弱気になってんだ?・・・そんな、全くお前らしくもねえ事言うなよ・・・・
確かに、こっちに来てから今まで毎年、祭りには行ってたけど・・・・・でも兄貴さ、いつもあのバカみたいな人混みが
どうにも苦手だって言って、帰ってから必ず俺に愚痴零してたじゃねえか・・・・・・・忘れたのか?・・・・・・・ん、まあ・・
それでも祭り、行きたかったんならまた来年、行けば良いよ。・・・・・・来年だったら兄貴の身体も、もうすっかり元気に
なってるだろうしさ」

この時関羽は自分に再び自由になれる事などあるのかどうか、不安になっていた。確かに病状そのものは少しずつ
回復していたが、毎日食後に苦い薬を山のように出され、未だ心臓の状態は不安定でベッドから降りて自分の足で
立ち上がり、自由に歩く事さえも許されない自分は、もしかするともうこれ以上良くなる事はなく、このままずっと何年、
いや何十年も薬を飲みベッドの上で過ごす人生を送らねばならないのだろうかと。
二度と、義弟とデートしたり一緒に遊んだり、今まで当たり前だった普通の生活は望めないのではないだろうかと。
だから彼の中には毎年つい愚痴を零してしまって、一度も本気で祭りを楽しんだ事が無かった自分の態度を心残りと
して悔いる気持ちがふと、沸き起こっていた。
きっと、毎年繰り返される自分の愚痴を、張飛はさぞ不愉快に感じていた事だろうと強く後悔して。

でも、張飛にはそれが判明らなかった。

段々良くなって来ている義兄はやがて元通り元気になる。そしてまた、これから先の未来までずっと共に在る。
そう信じて疑わなかったからこそ、いつもと違う言動を見せた関羽にも、「弱気になるな、また来年があるよ」と軽く
言葉を返しただけで済ませてしまったのだ。

その後関羽は、容態そのものはいつもと全く変わりが無い筈なのに、確かに元から饒舌な方では無かったが明らかに
口数が少なくなり、張飛が傍にいても表情は硬い時が多くなって、精神的に深く落ち込んでいる様子を見せ始めた。

さすがに、最愛の義兄とは言え心の中までは見透かせなかった張飛は、きっと彼には闘病の励みになるような目標が
無いからいけないのかも知れない、ベッドから出られずに退屈もしているのだろうとふと思いつき、ある日の朝、
旅行会社のパンフレットを沢山抱え、楽しそうに病院にやって来た。

「なあ関羽、海外旅行に行かないか」
病室に入るなり、抱えていたパンフレットをベッドテーブルの上にドサッと置き、まるで鳩が豆鉄砲を喰らったような
顔をして固まっている義兄の方にそれを引き寄せて、座る。

「・・・行ける訳が、なかろう?・・・・大丈夫か張飛、お前」
"この姿を見ろ"と言わんばかりに示し、少し眉を顰めて案の定、否定の返事。
そして続けて、義弟を気遣う言葉。
関羽は、毎日自分の傍に目一杯の時間付き添い、その後夜通し働き詰めの義弟は疲れが溜まり過ぎて、とうとう
頭にきてしまったのではないかと心配になる。
自分はまだ入院中の身で、いつ退院出来るかさえも判明っていない。


なのに旅行になど、行けよう筈が無い。


だが、張飛は逆にそんな義兄を呆れたように笑い飛ばし、それからようやく、話を始める。
「ははは、ひでェなァ兄貴。誰も今すぐなんて言ってやしねえのに、大丈夫かって事ァねえだろ?勿論俺はすこぶる
正常だよ。何なら、数字でも順番に数えようか?・・・・・ま、そんなのは良いとしてあれだ、まだちょっと気が早いかも
知れねえけど、お前が元気になって退院したら、二人っきりでどっか旅行するっての、どうかと思ってさ」

事情を説明し、少し照れ臭そうにニイッと無邪気な笑顔を見せて笑った義弟は、とても愛おしい。

「・・・・ああ、何だ・・・そういう事、か・・・・・」
関羽も早とちりをした自分を自嘲するように、フッと微笑う。

「な、どうだよ行きたくねえか?・・・・・よく考えたらさ、俺達こんなに長く一緒にいるのに、二人で旅行らしい旅行は
まだ一度もしたことねえだろ?・・・近くで一泊とか、そんなのだけだったよな。だから、どうせ行くなら思い切って外国
なんて行ってみるのも良いかなあってさ。・・・・・まだ退院はいつになるか知らねえけどな、それまでに何処行くか、
じっくり考えといて欲しいんだ。動けなくて退屈してるみてえだから、色んな事考えてたら少しは気も紛れるんじゃ
ないかと思うしさ」

そう言って自分の言葉にはにかみ、照れを誤魔化すように微笑う張飛の精一杯の心遣いが関羽にもひしと伝わってくる。

「・・・・有難うな、張飛。・・・・ああ、そうだな・・・お前と二人で外国へ旅行か、それはきっと・・・どんなにも楽しかろうな・・・
・・・わかったよ、考えよう」
そうして関羽は優しく笑み、義弟の心遣いに応える。
やっと、笑ってくれた。張飛は義兄の優しい笑顔が戻って、心底嬉しかった。初めて彼の役に立てたと、そう思えた。

「はは、そうこなくっちゃ!これで決まり!・・・・退院祝いだから、旅費は全部俺が持つ。兄貴が元気になるまで
バイト頑張って、ちゃんと作っとくからさ。・・・だから兄貴もしっかり養生して・・・・早く、元気になろうな」

何処までも無垢で純粋で、心の底から自分を愛して慕ってくれる張飛を見ていると、思うように回復しない自分の
身体を恨み、塞ぎ込んでいた関羽の心の中は再び、温かなもので一杯に満たされた。
自分は一体、何を塞ぎ込んでいたのだろう?
彼が傍にいてくれるなら、自分はもっと頑張れる筈だ。

そんな気が、していた。

しかし運命と言うのはいつだって、皮肉なものだ。
二月も半ばに差し掛かる頃ようやくベッドから出ても良いと許可が下りて自分の足で立ち上がり、少しずつ歩く事も
出来るようになって退院への希望が見えた途端、関羽は再び熱を出し、胸痛を訴えて一気に寝たきり状態へと
逆戻りしてしまった。

また微熱が続いて下がらなくなり、咳も、以前より酷くなってきていた。

「・・・・なあ、そんなに落ち込むなよ。久しぶりに立って歩いてたから、きっと身体がビックリしちまったんだよ。
・・・な、元気になって旅行、行くんだろ?約束したんだぜ?・・・・俺、楽しみにしてんだからさ」
「ははは・・・・   ・・・元気になったら、な・・・・・・・・・・・なれれば、良いが・・・・・・」
力なく微笑うがすぐにコンコンと咳き込み、少しだけ寝返りを打つ。
折角見えかけた希望がまた遠のいてしまった事で関羽はもうすっかり落ち込んでいた。
張飛はその背中をそっと摩ってやりながら、義兄の身体がどこかゴツゴツとして硬く、大分痩せてしまったことに
気付いていた。関羽は少年の頃から武術の道場へ通っており、今では師範代の免許も取得している程の腕前で、
鍛えられた身体は程よく肉付き、逞しかった筈だ。

でも、そんな元気だった頃の彼などまるで嘘だったかのように、余りに脆く弱々しくなってしまった、最愛の義兄。
しかし張飛は認めたくなくて、彼が病などに負けるはずは無いとどうしても信じたくて、わざと明るい調子で言葉を返す。

「大丈夫だって!兄貴は絶対、また元気になるよ!・・・・ならなきゃ、俺が許さねえ。・・・どんなに時間が掛かっても
良いじゃねえか・・・・・・焦らずにしっかり、治そうよ。兄貴はまだ三十一なんだしさ、時間なんていくらでもあるだろ?
・・・・・俺、お前がちゃんと元気になるまで、いつまでも、待つから」
義弟の言葉にふと向き直り、関羽は済まなそうに頷く。
起きて歩けるようになった事が嬉しくてつい、頑張りすぎてしまったのかも知れない。
焦り過ぎた。
自分の身体には、まだまだ長い時間が必要なのだ。
反省、しなければな。
そう自戒し、また容態が持ち直したら今度は、ゆっくりと少しずつ、確実にリハビリを受けていこうと、考えていた。

だが、その夜張飛が帰った後から関羽の熱は急激に上がり、一時は四十度近くにもなって、心臓への負担が
心配されてきた為彼は再び集中治療室へ移された上、絶対安静・面会謝絶の措置が取られた。
一度上がってしまった熱は治療室に入ってからもずっと三十八度台のままで下がる事は無く、ベッドには
酸素テントが張られ、義弟にも会えなくなって、関羽はその中で点滴やモニタ類に繋がれ熱に魘されつつも、
張飛が持って来てくれたパンフレットを看護士に頼んで持ち込んで貰い、それらを手元に置いて何度も読み返し、
眺めながら、そこにある外国の風景の中で義弟と楽しく過ごす自分の姿をひたすら思い描いて気を紛らわせ、
必死に病と闘った。

心から自分を信じていた。希望だけを持っていた。

さすがに張飛は、翌日来て初めて義兄の容態が悪くなり、面会謝絶になった事を知った時は医師に食って掛かったが、
そうしたところでどうにもならないと判明ってからは会えなくても毎日病院は訪れ、再び面会の許可が下りる日を
期待して心待ちにしつつ、良くなるようにとただ、祈り続けた。
寺を訪れ、好きな酒を一切断ってまで、願掛けもした。


でも余りに弱り果てていた関羽の心臓にはもはや、生きたいと願う本人の気持ちに応え、それ以上彼の身体を
支えて行けるだけの力は残っておらず―――三月に入ったばかりのある日の早朝彼の容態は急変し、危篤となった。
皮肉にも、入院した日最悪に近い状態にまで悪化しながらも彼の命を救った「長身で大きい身体」が今度は仇になった。
彼には身体中に新鮮な血液を送り出し、漲る力を生み出す為の、標準的な体格の人よりも丈夫で強靭な心臓が必要だった。

アルバイトから帰宅して僅かな睡眠を貪っていた所だった張飛は鳴り響いた携帯電話の着信音に飛び起き、急変を
知って慌てて病院に駆けつけてきた。真っ青な顔で、三月と言えど早春の明け方はまだ寒いのに、いつもTシャツと
トランクスだけで眠っている彼は寝間着代わりのシャツのままジーンズを履き、革ジャンを羽織っただけの恰好で
やって来て、まさに着の身着のままという言葉が当て嵌まる状態だった。

治療室の中では、医師や看護士達がベッドを取り囲み、点滴や注射を施して何とか容態を回復させようと必死の
処置を続けていた。

「・・・・・・関、羽・・・・・・・?」
到着し、待っていた看護士に付き添われて約半月振りに義兄と対面した張飛は、苦悶の表情を浮かべ、酸素マスクの
内側を僅かに曇らせながらベッドに横たわる義兄の手を取り、震える声で呼び掛ける。
あんなに待ち望んでいた再会の日がまさかこんな形になろうとは、余りに辛い現実だった。

大好きだった義兄の大きな手は、会えなかった半月の間に、一段と痩せ細ってしまっていた。
痩せて、熱っぽい義兄の手。
張飛はその痩せ細った手に、この半月の間関羽はどんなに容態が悪く苦しんでいたのか、それを痛いほど感じていた。
たった一人で、きっと寂しかった事だろう。自分も会えなくて、とても寂しかったのだから。

「・・・・・・・・   ・・・・・阿・・・飛・・・・・・・・」
僅かに開いた虚ろな瞳で張飛の顔を見て、ようやく搾り出した関羽の言葉に、張飛は涙が堰切って溢れ、
思わず声を荒げて否定の言葉を繰り返す。

「・・・嫌だ・・・・!!・・・・嫌だ、よ・・・兄貴・・・・!!・・・・しっかり、してくれよォ・・ッ・・・!・・・・・ ・・・・・・
・・・・  ・・・・元気になって、・・・・旅行、行こうって・・・・・・・約束、しただろう・・・・?!」

“阿飛(アーフェイ)”――――それは関羽と初めて出逢った子供の頃の、張飛の呼び名だった。
お互い一人っ子政策の許に生まれた為実の兄弟は持てず、でも関羽は兄弟を持つことに非常に憧れていて、
そんな中で引越し、移った先で五歳年下の張飛に出逢った時、“羽”という名の自分に対して“飛”という名を持った
彼には何か、単なる偶然というだけでは済ませられない運命的な絆のようなものを感じ、子供心にもやはり同様の
思いがあったのか、出会ってすぐ自分を慕って懐いた彼をせめて形だけでも本当の弟のように思いたくて、
姓を呼ぶ必要のないこの呼び方をとても気に入っていたようだった。

しかし、本来名前に「阿」をつけて呼ぶのは幼少時代の愛称のようなものであり、張飛自身は十代半ばになると
丁度思春期に差し掛かった時期でもあって人前で「阿飛」と呼ばれる事を急に恥ずかしく感じ始め、「いつまでも
ガキ扱いするな」と拗ねて怒ってからは、ずっと封印されていたものでもあった。

関羽はきっと、本当は張飛の事をずっと阿飛と呼び続けたかったのだろう。
そして今、関羽の瞳に映っている張飛には子供の頃の姿がだぶっているのだ。
何より大切で、この世で一番愛している、自分の弟として。


最期の瞬間(とき)が、迫っていた。


「・・・    ・・・・・・      ・・・笑っ・・・て・・・・・・・・・・・・・・・笑、顔・・・・・・・見せ・・・て・・・・・・・・・・阿、飛」
泣き続ける義弟に最後の力を振り絞り、関羽はいつもの慰めの言葉を発する。

「・・・・い、や・・だ・・・・・・・・・・    ・・・・・・兄、貴また・・・元気に、なるんだろう・・・?・・・・・・阿飛・・って・・、
呼んじゃ、嫌だ・・・   ・・・いつもの通り・・・張飛って・・・・呼んで、くれよォ・・・・なァ、関羽・・・・ ・・・兄貴ィ・・・」

でももう、張飛にはその"魔法の言葉"も効かなかった。泣きじゃくりながら張飛は必死で、義兄に言葉を掛ける。

どうして、義兄はこんなにも、優しいのだろう。
今にも燃え尽きてしまいそうな命の炎を精一杯光り輝かせながら、
消えてしまいそうな意識を懸命に保ちながら、
こんな時でさえ彼にあるのは、自分に対する深く優しい、愛情だけ。他には、何も、無い。

その思いに溢れる涙は決して止まらず、透き通った大粒の雫となって、頬を伝い流れるばかり。


もう、義弟を泣き止ませる魔法の力さえも消えてしまった自分が情けなくて、関羽はほんの僅か寂しそうに微笑うと
何処にそんな力が残されていたのかと思うほどの渾身の力を込め、空いているもう一方の手を張飛の頬に
伸ばそうとして、それに気付いた張飛が自分の手を添え、そっと引き寄せて顔を近づけると――――彼は
その指先で僅かに涙を拭ってくれてから潤んだ優しい瞳で張飛を見詰めたまま、静かに目を閉じる。

途端に、頬を触れていた彼の手は力を失って添えていた張飛の手をすり抜けて落ち、吐息で僅かに曇りを見せていた
マスクにもその気配が見当たらなくなって、同時にコトリと力なく、義兄の顔は張飛の方へ傾く。
閉じられた目の端から涙が一筋、流れ落ちていた。

同時に、彼に繋がれている装置がけたたましい警告音を発し始める。

「・・・・・・兄、貴・・・・・・・?」
何が起こったのか理解らないまま、涙声で呼びかける。

答えは無い。

「・・兄貴?・・・関羽・・・?!・・・目、開けろよ・・・   ・・・・・・・・・起きてくれよ、なァ・・」
身体を揺すってみるが、やはり答えはない。


優しい寝顔のままの義兄は、もう二度と目覚める事の無い眠りに、就いていた。
握っていた手も、そっと触れた顔もまだ温かいのに、彼はもう、いない。


(・・・・これはきっと、悪い夢なんだ・・・・・・そうだ、これは夢だ・・・・!!・・・・早く、目を覚ませよ、俺・・・!)

目の前にある現実が、信じられなかった。
ここしばらく義兄に会えない所為で、これはきっと悪い夢を見ているに違いないと。そう、思いたかった。
目が覚めたらきっと、またいつもの時間が始まる筈だ。

今日こそは再び義兄に会えるかも知れないと期待し、病院に通い続ける日々が。


しかしどんなに念じても、決してもうその夢から覚める事は無かった。

ようやく、これが現実なんだと理解した。
カーテンの隙間から差し込む朝日の光だけが、無性に眩しかった。

色んな思いが頭の中をぐるぐると一気に駆け巡り、ふと窓辺の眩しい光を何気に見やった途端、張り詰めていた糸が
ぷつんと途切れたように張飛は気を失い、亡き義兄の身体に縋り付くようにして、倒れ込む。



(・・・・・・・・・)

何となく意識を取り戻して重い目蓋を持ち上げた時、張飛はベッドに寝かされていた。
一方は壁になっていて、もう一方にはくすんだ薄い黄色のカーテンが引かれている為、その場所が何処なのかは
判明らない。

“ああ、俺、倒れたんだ”
ただ虚ろな意識のまま、何となく自分の置かれている状況を考える。
――――――でも正確には、何も「考えて」はいなかった。
魂を抜かれた抜け殻のような自分がそこにあり、ただぼんやりと天井を見つめるだけだった。
少し、頭が痛かった。泣き腫らした目蓋が、重かった。

突然、カーテンが少し開けられて、張飛はピクッと身を震わせ、我に返る。

「・・・・・!・・・・・気が付かれましたか、良かった」
目線を移すとそこにいたのは、様子を伺いに来た看護士だった。

「ご気分はどうですか?・・・二時間ほど、ずっと意識を失われておられたんですよ?・・・・・何があったか、ちゃんと
覚えておられますか・・・?」
とても長い時間眠っていたような感じがしたが、実際はたった二時間の事だった。
何があったか、と問われ、張飛の脳裏に浮かぶのは漠然とした、「関羽が死んだ」という認識だけ。
余りのショックに感情が鈍っているのか、その言葉を思い浮かべても不思議と、辛いとか悲しいという気持ちは今は
全然湧いてこない。


“死”というものの意味が、理解らなくなっていた。
ずっと会えずにいた所為もあり、義兄がいなくなった実感がまだ、無かった。


「・・まだ午前中ですし、もうしばらく休まれていて良いですよ。・・・・・気分がはっきりされてから、起きて下さいね」
自分の問いにコクリと首を振るだけで答え、そうしてまたぼんやりしている張飛の様子を察してか、看護士は
もうしばしの休養を薦める言葉をくれてから、そっとカーテンを閉め、立ち去る。

張飛は薦められたまま、またしばらく、眠った。


再び目が醒めたのは、午後だった。
ベッドから出て宛てなく廊下をさまよい、午後休診で人気の無い薄暗いロビーに自動販売機を見つけて飲み物を買って
ベンチでぼんやりしていると午前中に来た看護士が探しに来て、事後の手続きについて教えられた。

“退院承諾/治療費清算書”と書かれた書類を渡され、署名をして下さいと言われた時少しだけ、実感が戻った。
それは入院費の清算など事務手続きの為だけに必要らしく、普通に退院する時と同じ書類だったので張飛には
内容は読まなくて結構ですと、告げられた。

家族として自分の名を書く隣に退院する本人も署名をする欄があり、そこには既に使わないことを示す線が引かれていた。
もし義兄も隣にいてこの欄を使い、彼がそこに名前を書く事が出来ていたらどんなに嬉しかっただろう。
そうなる日を、どんなに願っていただろう。
でも、今ここにいるのは自分だけ。隣にいる筈の義兄の姿も無い。

"兄貴はどうしてここにいないんだろう?"そんな気持ちだけはまだ、漠然と残っていた。
涙が、零れた。



その日は結局、既に湯灌などの処置も終え、霊安室に移されていた義兄の遺体と対面する事は出来なかった。
心の中ではまた独りぼっちにすると寂しいだろう、自分が行って傍にいてやらなければ、と理解ってはいるのに、
やっと頭の中で受け入られ始めたばかりの義兄の死を、その目で実感するのはまだどうしても怖くて、行けなかった。

だが医師からは既に退院手続きも済んでおり、故人は出来るだけ早く自宅に連れて帰って安心させてあげなさいと
諭され、引き取りの際病衣のままでは辛いだろうから、良ければ本人が愛用していた普段着を用意してくださいとも
言われたので、取りに帰る事になった。



「・・・・・ただいま」
夕暮れの頃。
玄関を開け、誰もいない部屋に向かって声を掛ける。
さすがに、義兄はもう三ヶ月近く前からずっと、この部屋にはいなかった。
半月前からはもう会うことさえも出来ずに、早い時間にこの部屋に戻ってくる事も多かった。

だから、一人きりなのには慣れたつもりだった。

ただ、今は自分しかいないと判明っていても、声を掛ける事だけは止めずにいた。
――いつか義兄は元気になってこの部屋に帰ってきて、また一緒に楽しく、幸せに暮らすのだと信じていたのに。
おかえり、と静かな明るい声で迎えてくれる優しい義兄がまたここにいることを、望んでいたのに。


明かりを点け、ふと見えた寝室のベッドは当然の事ながら朝知らせを受けて飛び出していった時のまま乱れていて、
改めて見ると決して広くは無い部屋の中は、関羽がいた頃には有り得なかった程散らかっている事にもやっと、
気付いた。

(・・・・こんな部屋に帰ってくるんじゃあ、兄貴きっと・・・・また、怒るだろうな)

生真面目で几帳面な関羽と対照的に、張飛は片付けや整理がひどく苦手で、あれこれ出しっぱなし、
使いっぱなしにしてはいつも怒られていた。
「まったく、お前は本当に幾ら言っても、片付けが出来ないな」
部屋を見遣り、そう言って呆れ気味に溜息を吐く義兄の姿が、そこに見えるようだった。

そんな事をふっと考え、でも明日確かにここに“帰って来る”彼にはもう怒られることも、言葉を交わすことも
有り得ないのだと思うとまた胸の奥がチリチリと痛み、虚無感と共に寂しさが込み上げてくる。


取り敢えず目立つものだけ少し片付けてから寝室にあるクローゼットを開け、義兄の為に持っていく服を選ぶ。
関羽は案外おしゃれだった事を窺わせるように結構沢山の服を持っており、そしてそのどれにも、張飛は
見覚えがあった。
それらを見ながら一体、今はどれを選んでやれば彼は一番喜んでくれるのだろうと、迷う。

その時になって初めて、張飛はずっと一緒にいた筈の自分が、義兄の服の好みを殆ど知らなかった事に気付いた。

そう言えばいつも洋服を買ってくるのは関羽で、彼は張飛の好みもしっかりとよく知っていたし、本来余り服装には
拘らないので張飛は義兄が買ってきてくれた服に一度も文句をつけることは無く寧ろ、気に入り大喜びで着ていたが、
たまに張飛が自分で衣類を買う時は殆どの場合自身の下着とか気に入った古着くらいであり、毎年欠かさず贈り物を
し合った誕生日とクリスマスにも、義兄に贈る服を買ったことは一度も無かった。

考えあぐねた張飛は仕方なく、アルバムを見てその中で彼が着ているものを選ぼうと思った。
それなら、自分で選んで着ていたものだからきっと間違いないと、そう考えていた。

クローゼットの下の段にしまってあった沢山のアルバムの中から一番新しいものを引っ張り出し、夕暮れの光が差し込む
ベッドの上に座り込んで、一つ一つめくっていく。
すると途端に、色んな思い出が甦ってくる。
思わず、今はまだアルバムを見るべきじゃなかったと後悔したときにはもう、遅かった。


写真の中に残っている義兄の笑顔はどれも幸せそうに深く優しくて――――――もう二度と、その笑顔を見ることは
出来ないのだと思い知った。
指先で写真の中の義兄の姿をそっと撫でると、強い喪失感に襲われた身体が、震えた。
また、涙が零れる。

アルバムの中で日付が一番新しく、最後に収められていたのは去年の秋、国慶節(建国記念日)の休暇に隣の
澳門(マカオ)へ一泊で遊びに行った時のものだった。
その後のクリスマスに最後のデートをした時にも写真は何枚か撮ったようには思うのだが、いつもアルバムの
整理をしていたのも関羽で、そのクリスマスのすぐ後から少しずつ体調がおかしくなっていた為、そういう細かい事は
後でまた改めてしようと思い何処かへしまったままになっているのか、或いはまだフィルムが残っていたりして
現像に出せないままなのか、見当たらなかった。


そして、澳門で撮った沢山の写真の中に、たった一枚だけ関羽が独りで写っているものを見つけた。
泊まったホテルのベランダだっただろうか、少しピンボケのその写真の中で義兄は室内から持ち出したチェアに足を
組んで腰を掛け、片手に缶ビールを掲げて少しおどけた感じで嬉しそうな、いつもの優しい笑顔を浮かべていた。


背景の端には街の明かりが白く滲んだ、青碧の夜空。


(・・・・・・・あ・・・・・・・・・)
張飛は、それが自分で撮ったものだということを思い出していた。
遊びに出掛けた時の写真はいつも関羽が撮るか、その場で人に頼んで二人一緒に撮ってもらうかだったので
必然的に張飛の写っている写真は多かったが、張飛はカメラを扱うのが下手でいつも失敗することが多く、それで
いつの間にか自分からは滅多に触ろうとしなくなっており、だから義兄独りだけの写真は、自分のものに比べて
極端に少なかった。

その中の、一枚。
淡いブルーのニットを着て茶色のカーゴパンツを履き、足元はレザーのサンダル。
個々の服は決してその時に初めて見たものではなかったが、何故かその時はドキドキするくらい彼の姿が愛しく
素敵に見え、張飛は何とかそれを写真に収めておきたくて敢えて苦手なカメラを持ち出し、撮ったものだった。

そして、苦手な筈の張飛が珍しく自分から撮ると言った事に関羽は大喜びで、写真に残っているポーズを決めてくれた。

張飛は、その写真の服を探して持って行くことに決めた。
実際の最後の思い出はクリスマスだが、今の時点ではその時の写真は無い。
だから、アルバムに貼ってある一番最後の思い出の服を、届けてやりたいと思った。

几帳面だった義兄の事、目当ての服は程なく見つかった。
どちらも澳門から帰ってすぐに出してあったのだろう、クリーニング店の札がついたままニットはきちんと畳まれて
引き出しの中に収められており、カーゴパンツはハンガーに掛けられてあった。
それらを揃えてバッグに詰め、もう暗くなった道を病院に戻る。
元々詳しい事情は話していなかったアルバイト先には本当の事は言わず、都合でしばらく休むとだけ、連絡しておいた。

そして病院に着くと持ってきた衣服を担当に言付けてもらい、それからようやく霊安室にいる義兄に対面する。


「・・・・・関羽」

薄暗い霊安室の中。
蝋燭が灯され、香の焚かれたその部屋で、真ん中に置かれた寝台の上に、白い布で全身を覆われて関羽の遺体は
静かに横たえられていた。

「・・・・・俺、来たよ・・・・・・・・また独りにしちまって、御免な兄貴・・・・・寂しかったろ」

白布をそっとめくり、大好きな義兄の顔を見る。元気だった頃と比べるとすっかり痩せてしまっていたが、ようやく
病の苦しみから解放されたその表情は皮肉にも、生きていた時より何倍も穏やかで、声を掛ければ今にも
目を開けるんじゃないかと思うほど、本当にただ眠っているだけのように安らかだった。

しかし、そっと触れてみた青白い肌にはもう何の温もりも無く、張飛は改めて彼の「死」を体感し、実感する。

彼らは二人とも既に両親を亡くしていたが、工場労働者だった張飛の父が仕事中の事故で亡くなったのは八歳の
時でその頃彼にはまだ母がいたし、その後、夫を亡くして以降病気がちだった母も十五歳で亡くした時には当時
二十歳だった、今はもう目の前で無言で眠っている義兄が傍にいてくれ、それからはずっと、彼と暮らしてきていた。

そして、六年前香港に移り住む前に老齢だった関羽の両親が流行り病で相次いで他界した時もやはり、二人で見送った。
だから、自分独りで人の死を実感する事なんて、今までの彼には経験が無かった。

「・・・・・明日・・・・・一緒に、家に帰ろうな・・・?・・・やっと、退院・・・・出来るんだぞ・・?家に、帰れるんだぞ・・・?
・・・良かったな・・・・なァ、嬉しいだろ、兄貴」

本当は、嬉しい筈なんて無いのは知っていた。何も良い筈なんて、無かった。
こんな形で退院を迎えることが、義兄にとってどれ程の無念であるかなんて、そんな事は張飛にだって十分、
理解っていた。

関羽は生きて、笑顔で、元気に自分の足で歩いて退院出来ることを何より望んでいた筈だ。
そして体調が完全に整ったら、一緒に旅行に行くことを楽しみにしていた筈だった。

でも、それが理解るだけに返って、今はもう精一杯退院を祝う言葉でも掛けてやらなければ、とても耐えられなかった。

そっと、義兄の冷たい唇にくちづけをする。
病に倒れてからはもう、くちづけすら一度も交わしてはいなかった。

重い心臓病を患い、血色の良かった肌も透き通るように青白くなって、頻繁に乾いた咳もしていた義兄の痩せた身体は
もはや、健康で力もある自分の腕では抱き締めるだけでも壊れてしまいそうで、だから張飛は手を握ったり背中を擦ったり、
時には寝たきりで鬱血し浮腫んだ足を揉んでやったり、そういう、病人に対する最低限の行為以外は自分からその身体に
触れる事を決してしようとはしなかった。
くちづけなんて病気が治ったらまたいっぱい出来るから、と自分に言い聞かせて、我慢していた。


しかしその願いももう、永遠に満たされる事は無く。


「・・・・・・兄貴の唇・・・・・・・冷たい、な・・・・・・・・・・・・    ・・・・」
僅かに自分の体温が移った義兄の唇に触れ、すぐに消えていくその温度が悲しくて、張飛はポロポロと涙を零し、
ただ、哭く。

何を話しかけても、どんな言葉を投げかけても答える事は無く、ただ静かに眠っているだけの関羽の冷たい身体の傍に
張飛は一晩中寄り添って、朝が来るのだけをぼんやりと待った。

翌朝、葬儀社の係員が二人来て、遺体の着替えと納棺をすると言われて廊下のベンチで待っていた時、昨日のあの
看護士がふと思い出したように、張飛の許を訪れた。
その手には、何か雑誌のようなものを抱えていた。
そして少し躊躇いがちにそれをそっと、差し出す。

「余りにお辛そうだったので、お返しするべきかどうか迷っておりましたが・・・やはり、これはちゃんとお返し
しなければと思って・・・持って来ました」
受け取ってみると、それは張飛が以前持って来た旅行のパンフレットだった。
何種類かあったそれらは全部、何度も何度も見返された事を示すように、ボロボロになっていた。

それから、看護士は言葉を続けた。
「・・・・お兄さん、治療室に入ってから私にこれを持って来て欲しいと頼まれ・・・お渡しするといつも手元に置いて、
眺めておられました。少し気分の良いときは私にも嬉しそうに話をして下さって・・・・・・・・退院したら義弟(あなた)と
二人で旅行に行くんだ、その為に早く身体を良くしたい、きっとまた元気になれる筈なんだと仰って、とても強い
希望を持たれてずっと頑張っておられたのに・・・ ・・・・・余りに、残念でなりません」

初めて生の言葉で聞かされた、会えなかった間の義兄の様子。
張飛は胸がトクン、と強く脈打ち、 パンフレットを開いて見てみるとページの所々には隅を折ったりしているところも
幾つもあり、関羽が辛い闘病生活を送りながらもこれを見て気持ちの支えにし、旅行に行ける日をどんなにも夢見て
頑張っていたのか、張飛にはその姿がはっきりと目に浮かぶようだった。


"お前と二人で外国へ旅行か、それはきっとどんなにも楽しかろうな"
旅行を提案した日、そう言って優しく微笑ってくれた関羽の顔が思い浮かび、声が耳の奥に甦る。


(・・・・兄貴はもう、行きたいところいっぱい・・・・・考えてくれてたんだな・・・?・・・ ・・・でも・・・、俺まだ・・・・
金なんて、一つも貯められて・・・ねえよ・・・・・・・・・・・たったの・・・二ヶ月しか・・・・・・経って、ないんだぞ・・?
・・・・・早過ぎるよ・・・・   ・・・・・・・・約束、したのに・・・・・・・まだ・・・・たったの三十一だったのに・・・・・・・・
こんなにも、旅行に行くの・・・・・楽しみにしてて、くれた筈なのに・・・・・・・・・  ・・・・・関羽・・・・・・・・・)
義兄の想いが一杯に詰まったパンフレットを胸に抱き、心の中に義兄の名を思い浮かべると後はもうただ、
決して涸れる事のない涙が自然に溢れ出して来て、泣きじゃくるしか出来なかった。

元々、関羽の為にと思いついた事だったし、彼には心から喜んで貰いたくて、張飛はせめて旅行の代金くらいは
全額自分で作ろうと、毎日頑張って働いていた。
所詮アルバイトの給料などたかが知れた額ではあったが、それでも何とか頑張って貯めようとしていた。

だが、約束してからたった二ヶ月しか経っておらず、元々家計の大半を担ってくれていた関羽の給料も一月に
最後の分が振り込まれて途絶え、もう自分の働いた分しか入って来ない状態では結局、自分の生活だけでやっとに
なってしまい、張飛がこの二ヶ月で貯められたのはほんの僅かな小銭だけだった。
―――勿論、香港に来てから就職して評価される業績を数多く残し、二年前に課長に昇進してからは彼の分だけでも
二人で十分暮らせるだけの月収は貰っていたようだったので、堅実だった義兄の口座には結構な貯金もされており、
入院で働けない事を詫びるように、"わしが働けない間、困ったら使って良いから"と言ってくれてはいた。

でもやはり、彼が六年かけて作った貯金を自分の為に勝手に使うことはさすがにどうしても出来なかった。

だから、旅行の為に貯める額は例え少しずつになっても、生活も自分が稼ぐ金だけで賄うようにしていた。
そうして全部自力で貯めたんだよと、義兄に胸を張って見せたかった。
ただ、現実的に清算した入院費だけはさすがに約三ヶ月にも及ぶ長いものだった為、とても張飛が一人ですぐに
用意できる額では無く、それだけは申し訳ないと思いつつも義兄の貯金を崩して支払った。
果たせないままになってしまった約束が、余りに悲しかった。


その後、義兄の葬儀を済ませてから張飛は突然自宅に閉じこもり、アルバイト先のコンビニにも何の連絡もしないまま
行かなくなり、そのままなし崩しに辞めてしまった。
同じ時間帯に働いており、年も近くて仲良くなっていた趙雲や義兄の死を知らせ、葬儀に来てくれた河北時代の
古い友人達、そして以前勤めていたコミック店の同僚で親友の馬超からは頻繁に自宅の電話や携帯電話のメッセージ
サービスに心配してる、連絡が欲しいという伝言が入った。
特に一番張飛の気持ちを理解っている馬超は何度も部屋まで訪ねて来てもくれたが、張飛は一切応対しなかった。

もはや病院に通う事も寺に願掛け参りに行く事も必要なくなり、生きていく支えを失った彼には働く事など、
何の意味も持たなくなっていた。
自分が一人で生きているというそれさえ、辛かった。
兄弟となって十七年、香港に来てからは六年を一緒に暮らして来た部屋の中には関羽の存在が至るところに
残っていて、それも彼の悲しみに更なる追い討ちをかけた。


河北にいた頃からお気に入りで、他の家具類は殆ど処分した引越しの時にも、かつては彼の両親が大切にしていた
アンティーク品のクローゼットと共に遺して持ってきた、同じくアンティーク家具のデスクの上に置かれたパソコンの脇には、
読みかけのまま栞が挟まれた本や難しい専門書が何冊も積まれ、その上にはパソコンを使う時だけ掛けていた
眼鏡の入ったケースも置かれてあった。

モニタの周りには多分仕事に関するものだったのだろう、何だか分からない英単語や数字が並べられた走り書きの
メモや日付の記された付箋などが貼り付けられたままで遺されていて、入院した日に早退して帰った時、持って
行っていた通勤用のバッグと着ていた上着も椅子の上に無造作に置かれたままになっていた。
そのポケットにはとっくに電池が切れてしまった携帯電話も入ったままだった。

本当なら、使っていた本人のいなくなったものなどもう解約しなければならないのだろうし、彼の遺した持ち物を
見るのが辛ければ、全て片付けてしまうべきでもあっただろう。

でも張飛にはそれがどうしても出来なかった。
義兄が使っていたものを一つでも手元から失くしてしまうのは辛かった。
それを感じるのが辛いと理解っているのに部屋から彼の存在が消えてしまうのが怖かった。
だから、部屋は一緒に暮らしていた時のまま、携帯電話も毎月の料金だけ払ってずっと、そのままにしてあった。


あの日、張飛は仕事から帰って初めて義兄の具合が悪い事を知って、「何故もっと早く連絡しなかった」と怒った。


だが携帯は手元に無く、固定電話も寝室の外の壁に取り付けてあったのでもう、ベッドの上で動けなかった
関羽にはなす術無く、自分を呼びたくとも、呼べなかったのだと気付いた。

もし、少し体調がおかしくなって来ていた時にすぐに病院へ行かせていたら。
きっと彼を失わずに済んだ筈だった。
今も自分の傍には優しい眼差しを浮かべた彼の姿があり、これからまだまだ遠い未来まで、二人で幸せに
楽しく暮らして行けた筈だった。

"お前の所為ではないのだから"
義兄はそう言ってくれたが、張飛は大変な過ちを犯した気持ちは消えないままだった。

自分が関羽を、死なせてしまった。
どんなにも愛していた彼を、自分がほんの些細な配慮を欠いたが為に、失ってしまった。
彼とはもう二度と、逢えない。
一度だけ時間を戻す事が許されるなら、最初に体調の変化に気付いたあの時に戻りたい。


毎日ただ、虚しく寂しい時間が過ぎていくばかりだった。


―――――第二章へ続く


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