「楽園-Another Story of "The Letter"」

何処となく肌寒い、曇り空の三月。
車が忙しなく行き交う通りにある交差点の角に、青いリボンが巻かれた花束を携え関羽は佇んでいた。

「・・・・遅くなって、済まなかったな・・・・・やっと・・来られたよ」

そっと呟くが、彼の目線の先に語りかける相手はいない。そこにあるのは、

非常喜愛的尓的回憶和這個悲傷永遠不忘記 這個地方悲劇再不發生一樣地祈願
(大好きな君の思い出と、この悲しみは永遠に忘れない この場所で悲劇が二度と起こらぬように祈る) ”

と刻まれ、新旧いくつかの小さな花束が絶えず供えられている、小さく白い石碑がひとつ、だけ。

刻まれた文字の意味を思い出すと不意に涙が零れ、慌てて俯き拭うが後から後から溢れ出す涙はもはや
止められず、関羽は花束を石碑の傍らに捧げるとそっと手を合わせて、そのまましばらく祈りを捧げる。

その胸に甦るのは、今彼が祈りを捧げる相手との心から幸せだった日々の思い出と―――それが突然、
永遠に奪い去られた日の事。

関羽がこの世でたった一人愛した伴侶であり、何より大切に思っていた義弟(おとうと)でもあった、張飛。
彼を失ってから、もう一年が経とうとしていた。

                              ++++++++++++

あの日もやはり、今日みたいに何処か肌寒い三月の朝だった。
いつもなら、張飛は香港島にある自宅から九龍側・尖沙咀(チムサアチョイ)のオフィスまで通勤する義兄の出勤を
見送ってから、灣仔(ワンチャイ)にあるアルバイト先の店に出掛けていた。

だがその日に限って、関羽は前日の終業前オフィスの入っているビルの電気設備が故障し、業者に問い合わせた所
修理は一日掛かりになるとの事で会社は臨時休業、逆にコミック・雑誌などを扱う店の店員をやっている張飛は
入荷される品物が沢山届く日であり、早めに行って準備しなければという事でいつもより早く、彼だけが出勤する
事情になっていた。

「・・・あーあ、兄貴は折角休みになったのに、今日に限って俺は休めねえんだもんな、ツイてねえ」
いつもより三十分早い出勤時間。
張飛は予定外の休みとなった関羽と一緒にいられないことをボヤきつつ、義兄に見送られて出掛けるのが何処か、
不思議そうな感じだった。

「そうボヤくな、張飛。仕事なのだから仕方あるまい?・・まあ、その代わりと言う訳ではないが今日は独り働きに行く
お前の為だ、夕飯はお前の好きなものにしようと思うのだが、何かリクエストはあるか?さっき冷蔵庫見たら何も
無かったのでな、どうせ買い物に行くからたまには、お前の望みを聞いてやるぞ」

独り出勤する義弟を元気付けてやろうと、関羽はふと思いついて問いかける。

「お、そりゃホントか?やったね!・・・・んー、・・あァ・・・でもダメだ、今すぐにはこれって言うもの思いつかねえや。
だから、任せる。・・・帰ったら何が出てくるか楽しみにして、仕事してくるよ。・・・じゃあな兄貴、行ってきます」

でも腕時計を見、折角の義兄の言葉に十分に考えるだけの時間がもう無い事を知るとちょっと残念そうに笑って、
張飛は玄関を出て行った。

関羽は何故かその時無性に義弟を追って出てふと呼び止め、抱き締めてTVの恋愛ドラマでよく見かけるような
出掛けの甘いキスなんてしてみたい衝動に駆られたのだが張飛は急いでいるようだったし、恥ずかしがり屋の
彼の事だからきっと、今まで一度もしたことの無いそんな事を急にしたいと言ってもさせてくれないだろうなと
自嘲して、そのまま見送った。



(・・・ン?・・・・・何だ、また事故か・・・・・まったく・・・・・・・最近多いな、気をつけなければな)

玄関で義弟を見送ってから約一時間半後、関羽は折角時間もあることだし、ついでに義弟に服の一着でも
買って来て驚かせてやるか、と買い物がてら銅鑼灣(コーズウェイ・ベイ)辺りのデパートまで出掛けてみようと
家を出て、丁度灣仔の辺りで時間的には予想外の渋滞に巻き込まれ、その内に遠くで警察車両のランプが
点滅しているのを認めて、それが交通事故に因るものだと判明った。

実は、つい先日も仕事からの帰宅途中、車同士の接触か何かの交通現場に出くわして渋滞に巻き込まれており、
だから「ああ、またか」と軽い溜息交じりの気持ちを感じる。

関羽自身は免許を取ってから今まで一度も事故も違反も起こしたことは無かったが、事故の場合は望まざるとも
相手からやってくる可能性も絶対には否定できない。

そんな事を考えながら、交通整理の警官に誘導されて事故現場の脇を徐行して通り抜ける時、丁度レッカー車の
クレーンで吊り上げられ、ギシギシと嫌な音を立てながら荷台に乗せられようとしている事故車のオートバイを見た。

大型バイクだったが衝突と転倒で相当な衝撃を受けたのだろう、プラスチックのランプカバーなどは割れて破片が
散乱し、鏡の部分は既に無くなっているミラーも支柱の根元から折れて、転倒して漏れ出たガソリンや破損した
パイプ類から漏れたオイルが黒っぽい染みを作る路上に転がっている。

そしてふと、事故車のナンバープレートが目に入った。関羽は我が目を疑った。
「GYZF679」
少し折れ曲がってはいたが、そこに並ぶ文字列は確かにはっきりと、そう読み取れた。

(・・・・まさか・・・・・・?   ・・・・・・そんな・・・?)
途端に鼓動がドキドキと速くなる。

そのオートバイのナンバーは、張飛のものだった。GYはGuan−Yu(コァン・ユィ)の頭文字で”関羽”を意味し、
ZFはZhang-Fei(チャン・フェイ)で張飛自身、そして最後の三つの数字は香港では“6=ずっと”“7=幸福”“9=永遠”の
意味を持つもの―――――つまり、それはこの地に移住してこちらでの新しいナンバーを取得する事になった時、
組み合わせさえ空いていれば自分の好きなナンバーが付けられると聞いて、「二人はずっと幸せで、永遠に」という
願いを込め、申請して取ったナンバーだった。

そのナンバーを付けたオートバイが無残な鉄の塊となっている現実。
しかも、場所は義弟が勤める店がある通りの、すぐ近く。

すぐに少し先で車を止め慌てて現場に駆け寄ろうとして、関羽は制止に入った警官に思わず詰め寄る。

「・・・あ、あのオートバイはわしの義弟のものだ!・・・事故の被害者は?!何故こんな事故に・・?!運転していた者は
一体、どうなったのだ?!・・・・・彼は生きておるのか?・・・だとしたら何処へ運ばれたのだ?!頼む、教えてくれ・・!」

只でさえ二メートルを越す長身に長い髭を蓄えた威圧感のある風貌の関羽の、余りに切迫した様子に思わず警官も
たじろぎ、だが、彼は本当に事故の被害者と関係がある人物なのだと理解して、目撃者の証言を整理した事故の状況と
被害者の情報を無線で問い合わせてくれる。

それによると、事故現場の次の交差点を右折すると勤め先の店がある通りに入る為、張飛は右側の車線を走っていて
交差点の手前で信号が青に変わり、そのまま直進で進入した彼のオートバイに対向車線を走ってきて無理に右折しようと
したトラックがモロに突っ込み、転倒して数メートル先に投げ出された所を後続の別の車に轢かれたらしい。

それから、今ここでは詳しい状況までは判明らないものの張飛はかなりの重傷を負い、意識が朦朧とした状態で
薄扶林道のクイーンメリー・ホスピタル(瑪麗醫院)へ救急搬送されたということだった。

関羽はその時、義弟を玄関で見送る時に感じたあの衝動が実は虫の知らせだったのでは、と敢えてそれを抑えた事を
激しく後悔していた。

もしあの時、関羽が心のままに張飛を引き止め抱き締めてキスを交わし、ほんの数分・・いや、ほんの数十秒でも
家を出るのを遅らせていたなら――――張飛はここで事故に遭う事もなく、今頃はアルバイト先でせっせと仕事を始めて
いた事だろう。

そして夕方にはまた、いつものように帰って来る筈だった。
家を出る時、今日に限って休めない事を残念そうにボヤいていた義弟の表情がフラッシュバックする。

しかし今はそれを悔やんでいる場合ではなかった。
警官も被害者の家族が偶然に現れたことで、今からすぐに連絡を入れて貰ってあげるから行きなさい、と気遣って
くれたのでとにかく、搬送先の病院へ向かうことにする。

(・・・・張飛・・・・・・・・どうか、命だけは無事であってくれ・・・・・・・・・)

本来ならそう遠くは無い筈の病院へ向かう道のりが、その時ばかりはひどく長く感じられた。

関羽が病院に到着した時、既に警察から連絡が入っていた為、救急センター棟の玄関で看護師が彼の到着を
待ってくれていた。
連絡があった家族の者かと尋ねられ、そうだと答えるとそのまま、処置室に案内される。


「張飛さーん聞こえますかー、お兄さんが、来てくれましたよー」

看護師が義弟の名を呼びかけ、手を取って何度か軽く手の甲をパチパチと叩いて刺激を与えながら自分の到着を
伝えてくれようとしてくれている。
殆ど全裸の状態で処置台に横たえられた張飛の姿を一目見た途端、関羽の中から完全に希望が、消えた。
余りに痛々しい、変わり果てた姿の義弟。


「・・・張飛・・・ッ・・・!!・・・・・張飛ッ!!」

そしてようやく僅かに目を開けた義弟の傍に駆け寄り、ショック症状の為か、痙攣して小刻みに震えている彼の
土気色の手を取ってしっかりと握るとその最愛の名を呼び掛ける。
でもそうしながらも関羽には判明っていた。
認めたくは無いが義弟の身体はもはや何の手の施しようも無く、生命が消え行くのをただ待つしか出来ない状態
なのだという事を。
だからこそこうして、家族の自分が会うことを許されているのだと。

「・・・   ・・・・・・・・ ・・・・・・・」

虚ろな瞳に義兄の姿を捉えた張飛に、もはや音として出せる声は無かった。後続車に轢かれた時、折れた肋骨で
両の肺は傷つき、潰れてしまっていた。
肺の中に溢れた血も幾らか吐いたようで、酸素マスクの下で何か言いたげに微かに震えた口元には、血糊の跡が
生々しく残っていた。


でも関羽には“御免”と呟いた張飛の声がちゃんと聞こえていた。

「・・・・・理解っておるよ・・・  ・・・理解っておるよ、張飛・・・・・・お前は何も・・・悪くないんだよな・・・・・・だから、
お前が謝る事など・・・・何も、ない・・・」
自然と溢れ出した涙が頬を伝い、握った張飛の手の上に落ちる。

感情がストレートで涙脆い張飛が泣くのは今まで数え切れない程見てきたが、自分が彼の前で泣いたのは、
きっとこれが最初で最後だっただろう。
六年前、流行り病で相次いで亡くなった両親の葬儀の時でさえ、喪主の自分はしっかりしなければという思いだけで
グッと堪えた涙だったが、さすがにこの世で一番大切にしていた義弟の苦しみの前には、どんなに強い意志ももはや
通じはしなかった。

張飛は愛する義兄の心からの優しい言葉と、自分の為に初めて見せた涙に一瞬、何もかも安心しきったように微笑んで
関羽の顔を見たままゆっくりと目蓋を閉じ――――――――それっきり、二度と目を開ける事は無かった。

間もなく、モニタに映し出されていた波形が平らになって警告の電子音が処置室の中に響き渡る。

すべてが、終わった。

ほんの二時間前に玄関で見送った元気な姿がまさか、最後になろうとは。
「・・・・ああ、張飛・・・・・、・・・・・・張飛ィーーー・・・・・ッ・・・・・・・・・・  ・・・・・・ウァァァ・・・・ァッ・・・・・・・!!」
関羽はまだ温かな、傷だらけの義弟の身体をそっと抱き、精一杯の愛情を込めてしっかりと抱き締めると・・・・
段々消えていくその温もりを自分の身体にしっかりと刻み込み、腹の底から声を振り絞って義弟の名を呼び、
精一杯号泣する。




まだ、二十六歳だった。




『・・・兄貴、何してんだよ』

ン、張飛?・・・・いいや、別に何もしておらんよ、ただぼんやりしてただけさ

『故郷(くに)の桃が、もうすぐ綺麗な頃だろうなァ、今度休み取って見に行ってみないか』

藪から棒に、また思いつきだな?故郷は遠いぞ、でも、お前が行きたいならそうしよう

『そうだ、兄貴ってばよ!・・・今度の週末は飲みに行こうよ、良いだろ』

はは・・・行くのは別に構わんが・・・お前はすぐ羽目を外すからなあ

『俺、お前の事本当に大好きだ、関羽』

わしもだよ、張飛。お前を心から愛してる

――――――ん・・?おい待て、何処へ行くのだ?お前そんなに足が速かったか?
・・・こら、待てと行ってるではないか、何故聞かぬのだ、おおい張飛、張飛・・・・・!!



「・・・・張飛・・・・・ッ!!」

思わず、声を上げて身を起こす。そしてハッとする。
気がつくと関羽は自分達の部屋に帰っていて、床の上で眠っていた。

ふと部屋を見回す。

そして、ドアが半分ほど開けられ、カーテンが引かれて薄暗い寝室のベッドの上には既に、白い布を掛けられて
横たえられている最愛の義弟の姿がある事を、認める。

(・・・・・・・・夢、だったのか・・・・・・・・・)
現実を目の当たりにし、両指で目を擦る。目尻に涙の感触を知る。部屋の静けさが、何だか、怖い。

傍には何本もの空の酒瓶が並び、転げてそれらと一緒に、昨日家を出た時身に着けていた義弟の持ち物が
並べられていた。

記憶そのものは大分空白になっているようだったが、目の前にある状況から推測するにもう昨日のうちに手続きを
済ませて義弟の遺品と遺体を引き取って帰り、綺麗に支度を整えた後で、酒が好きだった張飛を一人で心行くまで
送ってやろうと飲んでいてそのうちに溺れてしまい、そのまま眠ってしまっていたようだった。

草花が風に揺れる暖かい日差しの原っぱで、義弟は確か彼の一番のお気に入りの、前面に「96」とプリントの付いた
白いパーカーを着て、下もいつものジーンズ・・・そうだ、昨日の朝見たそのままの服装で無邪気に笑って、草むらに
寝転んでいた自分に、まるで子犬のようにコロコロとじゃれ付いて来た。

そうして他愛のない言葉―そう言えばあれはほんの数日前、実際にはこの部屋で彼と交わした会話の断片だった―を
いくつも交わし、それから一緒に原っぱを少し歩いているうち、段々張飛の姿は自分から離れて遠ざかって行き、
必死に追いかけ、手を伸ばして捕まえようとしていた時・・・・・・・


夢から、醒めた。

今まではどんなに二人で一緒に楽しく過ごした後でも、あんなにも鮮明な義弟の夢を見た事は、多分一度も無かっただろう。

それはまるで自分の目を裏側から通して見ているかのような映像で、はにかみながら『本当に大好きだ』と言った張飛の
姿はたった今、目の前にいたかのようにくっきりと脳裏に焼き付き、声もはっきりと耳の奥に残っている。

(・・・・・張飛)

“遺品”をぼんやりと手に取り、ただ虚ろに眺める。

この前のクリスマスに買ってやったばかりで、それからいつも着けていた銀のブレスレットは目立つ傷も無くほぼ綺麗な
ままだったが、もう何年もずっと使っていた古い腕時計は前面のガラスにひびが入り、恐らく事故に遭った瞬間と思われる
時刻を指したままで止まっている。
ジーンズのポケットに入れてあったのであろう携帯電話もボディが割れて壊れてしまっていて、あの事故で張飛がどれほどの
衝撃を身体に受けたのかを目の当たりにする思いだった。
そしてビニール袋に入れられたままで置かれている、夢で見たのと同じ昨日の着衣に至っては、事故の衝撃と摩擦で
あちこち破れてアスファルトの黒い汚れと彼の血にまみれ、おまけに処置の為に鋏で切り裂かれてしまって今やもう、
ただのぼろ布のようになってしまっていた。

それらを見ているうちに関羽の中にはやっと事故の実感が湧き上がってきて・・・・寝室に行ってベッドに歩み寄り、
白布を取ってそこにある、まるで眠っているだけのような、でも不自然なほどに青白い義弟の顔を見て、髪を優しく撫でながら
ただ、哭く。

フルフェイスヘルメットを被っていた為か、身体には大小の酷い傷をいくつも受けていた彼だったが、顔には新たな痣一つ
負うことなく、血糊などももう全てしっかりと拭き取られて、とても綺麗だった。

「・・・痛かったな・・・・・、苦しかったな、張飛・・・・・・・   ・・・最期にわしを待っていてくれて・・・・・有難うな・・・・  
・・・・・ずっと愛してるよ、お前を・・・・・ずっと、永遠に」

ふと触れた肌の冷たさに胸がトクンと脈打ち、関羽は義弟の冷たい唇にそっと、自分のを重ねる。

死体に接吻(くちづけ)するなど、本来まともな人間のする事ではないかも知れない。
だが、その時の関羽には至極当たり前で正しい事だと感じていた。心から愛した恋人であり、義弟であった張飛との、
最後のキス。

本当は、昨日の朝元気だった彼と交わしたかった。
もしあの衝動を感じた時、無理にでもこうしていれば・・・きっと、張飛の機嫌は損ねたかも知れない、でも結果的には
彼の命を助けられていたのではないかと思うと、関羽の中には悔やんでも悔やみきれないやるせない心だけが残されていた。


だからこそ、最後のキスを交わしたかった。
愛しい愛しい彼との今生の別れとなる、最後のキスを。



張飛の葬儀はそれから二日後に行なわれた。
関羽と共に故郷の河北省を出、香港に移り住んでから既に六年が経っていたが、張飛は元々人を選ぶ性質で、
自分と気が合い気に入った友達は長く大事にする傾向が強く、関羽がショップに持ち込んで何とか取り出してもらった
携帯電話の登録データと関羽自身も直接知っていた名前などを照らし合わせ、こちらでのアルバイト仲間や故郷の
古い友人達など、張飛と付き合いがあったと思われる相手に彼の死を知らせたところ、その殆どが葬儀の当日、
集って来てくれた。

どうしても香港までは直接来られない事情のあった人も、きちんと弔電だけは送ってくれた。

祭壇には関羽がアルバムから選んだ、彼との一番最後の思い出である今年の旧正月の祭りの時の、缶ビール片手に
明るく無邪気に笑う「彼らしい」遺影が飾られ、その周りを囲む数々の花と一緒に、故郷から来た友人達が気を利かせて
持参してくれた桃の花――張飛が“近いうちに見に行こう”と話していたあの花――も添えられて、関羽は万感の思いだった。

また、今回の葬儀は元々張飛との血縁は一切持たなかった関羽が、せめて故人として送る最期くらいは本当の家族に
してやりたいと強く願い、本来なら“張家里人(張家の者)”として出されるべきところを“関家的親属張氏 (関家の縁者張氏)”に
変えてもらって、張飛は関羽の家族として、送ってやれることになった。

(・・・・・張飛・・・・・・・これでやっと・・・・・お前、わしの本当の家族に、なれたぞ・・・・・・・わしらはこれからもうずっと・・・・
家族なんだぞ、張飛・・・・・)
心の中でそっと、遺影に語り掛ける。

同性であるが故に、どんなに愛しても結婚という形は取れない事が理解っていた。
張飛もそれは知っていたからこそ、関羽に義弟として愛され、自分も彼を義兄として愛し慕う事で互いの愛情を納得し、
二人の間には何より強い義兄弟(きょうだい)の絆があると思うことで満足しようと、していたようだった。

でも時々、何かの折にふと「俺が男じゃなかったら、兄貴とちゃんと結婚出来るのに」なんて漏らすことがあったのもまた、
事実だった。

だから法律上はどうであれ、関羽は張飛を弟であると同時に形だけでも愛する伴侶として迎え、送ってやろうと棺の中の
彼の指には揃いで誂えた指輪を一つ嵌め、自分ももう一つを着けて葬儀に臨んだ。
いつの日か、自分が彼の許へ逝く時を迎えるまで、その愛は決して変らない事を約束する為に。
またいつか何処かで、彼と再び出逢える事を願う為に。

葬儀の後、張飛は最愛の義兄と確かな友情を結んだ友人達に見送られ―――海の見える静かな墓地に、埋葬された。

それから時間の都合がつく故郷の友人達は皆香港に留まり、うちの何人かは部屋に泊まって事ある毎に集まっては
皆で張飛の思い出話に花を咲かせて互いの親交を深めたが、それも数日が過ぎる頃には一人二人とそれぞれの生活に
戻って減って行き、葬儀から十日が過ぎる頃一番最後まで残ってくれていた高校時代の親友も帰ってしまうと、関羽も
また仕事を再開し、生活は以前と同じに戻ったかのように思えた。

だがそれは同時に、義弟がもういない事を何かにつけて実感する現実でもあった。

例えば、仕事帰りに買い物に立ち寄ると、無意識に二人分の材料を買ってしまっていたりする事が度々あった。
また、自分の衣類を買うつもりで出掛けても、義弟の好みにぴったりの服を見つけるとついつい、彼に合うサイズを
探していたりもした。

時には人混みで、髪型や服装の良く似た同じくらいの背格好の後姿に思わず、声を掛けてしまうことすらあった。

そしてそんな自分の姿にふと我に返った時、関羽の中には言われようの無い寂しさと、虚しさがただ、
込み上げて来るだけだった。
頭の中では義弟がもういない事をちゃんと理解っている。でも、心はいつまでもそれを受け入れられないでいた。

張飛が死んだ後、関羽は警察に頼んで事故車に付けてあったナンバープレートを譲り受けてきており、それは
葬儀が済んでからパソコンの隣に飾った遺影の傍に、一緒に添えてあった。
“ずっと、幸せで永遠に”とそこに込められていた願いを思う度に、彼の悲しみは増すばかりだった。

今までに何度、この部屋からはもう引っ越そうと考えただろう。
二人で一緒に眠っていたキングサイズのベッドを、何度売り払ってしまおうと考えた事だろう。
彼がいたままで残してある持ち物を、全て片付けてしまおうと、どれほど思ったことだろう。

でも、結局どれも出来なかった。
自分が悲しみから逃れたい、ただそれだけで、ずっと愛し続けると約束し、現に今も大好きなままの張飛の思い出を
捨ててしまえる筈など無かった。

自分の傍から、彼の存在を消してしまえる訳など、無かった。

「のう、張飛・・・・・・・・・逢いたいと思う時にはお前は・・・・・・夢にすらも、出てきてはくれぬのだな・・・・・」
彼が亡くなった日の夜一度だけ見たあの夢以来、どんなに願ってももう、張飛が夢に現れてくれることは無かった。
―――あれから、眠っている間はいつもただ、闇しかなかった。

遺影の中の無邪気な笑顔にそっと話し掛けるが、もはや張飛は何か応えてくれる筈も無く。
関羽の悲しみは決して癒えないまま・・・毎月の月命日には必ず墓参りを行ないながら春が過ぎ、夏が終わる頃、
生きていれば二十七歳になる筈だった張飛の誕生日が近づいた時、故郷の友人達から突然連絡があった。

折角迎える誕生日の為に、友人を奪われた悲しい事故を決して忘れない意味を込めて、皆で相談し、ちょうど彼の
誕生日に現場の傍に、小さな石碑を建てることに決めたという知らせだった。
実の所、彼らはこちらに移り住んでから出来た新しい友人達とも互いに張飛の友達同士だからと葬儀の時に知り合って
からは連絡を取り合い、役所への申請などを手伝ってもらって、既に石碑を建てる許可も、ちゃんと取り付けているの
だと聞かされた。

『・・・・・だから、関羽さんにもその日、来て欲しいんですが・・・・・その後でまた皆であいつの話でもして、誕生日、
祝ってやりましょうよ』
関羽にとってそれは凄く、温かい言葉だった。
自分が愛する義弟が、彼の友人達からもやはり愛されていた事をひしと感じられて、嬉しい言葉でもあった。

しかしあの日、偶然だったとは言え自分だけが直接目にしてしまった、無残な姿になった張飛のオートバイと激しい
事故の痕跡、そして痛々しい義弟の最期の姿は未だはっきりと関羽の脳裏には焼きついたままで、あれ以来関羽は
少し遠回りにはなっても、現場となった道を通る事はずっと避けてきていた。

張飛が実際に息を引き取った場所は確かに病院だった。
だが、運ばれたものの既に何の手の施しようも無く、助かる望みなど初めから無かった義弟の命は、事故に遭った時
既にもう奪われていたのと同じ事だった。
それゆえに関羽にとって事故現場こそが、「張飛の死んだ場所」に他ならなかった。

だから、あの恐ろしい光景を、あの時の絶望感を再び思い出したくは無くて、現場に近づく事を避けるようになった。
何より大切だった義弟の命が奪われたあの場所へ、行くのが怖かった。

「申し出は、本当に有難いと思うし・・・仲の良かった君らがそうしてくれれば、張飛もきっと喜ぶだろう・・・・・しかし
申し訳ないが、わしはあそこへは行けないんだ・・・・・・だから、碑の設置は君らだけで、お願い出来ないか・・・・・・
当日はその後で、うちへ来て皆で一緒に、張飛の誕生日祝いはしてやろう。・・・・勿論わしも、いつか心の整理が
ちゃんとついたら必ず見に行くが、今しばらくはまだ、時間を置かせて欲しい」

関羽の答えに、電話の向こうの友人は落胆した様子だった。
でも関羽が受けている心の傷は、発生直後の事故現場を見たわけでも、最期を看取ったわけでもない自分達より何十倍も
深いのだという事は彼らにもちゃんと理解っていたので、その返答を快く受け入れ石碑の設置は関羽抜きで行い、
その後で皆で集まって誕生祝をしてやることで了承してくれた。



「誕生日おめでとう、張飛」

当日はまるで、いつも陽気で明るく元気だった張飛の人柄を映し出すかのように、晴天で暑い土曜日だった。
午前中に集まり、近くの寺から僧侶に来てもらって設置した石碑に皆で祈りを捧げるのを済ませた後、彼らは関羽の待つ
自宅にやって来て、全員で張飛の二十七回目の誕生日を祝った。

遺影をテーブルの上手、主役の座る位置に飾り、二十七本のロウソクを立てたケーキと酒を注いだグラスを傍に置いて、
めいめいそのグラスに自分のを合わせあい、関羽が代わりにロウソクの炎を吹き消すと皆笑顔で拍手してくれ、友の誕生日を
心から祝ってくれた。

(張飛、良かったな・・・・・皆、お前の誕生日を祝ってくれておるよ・・・・・・・・・・・・義弟よ、二十七歳の誕生日おめでとう)
写真の中の義弟はこれからももうずっと二十六歳のままだが、そこにある無邪気な笑顔はまるで、本当に自分の誕生祝を
喜んでいるかのようにさえ、思えた。

それから夜も更け、地元の友人達は帰宅し、明日故郷へ帰る予定で今夜はここに泊まる何人かもある者は酔い潰れ、
ある者は楽しかった昔の思い出に浸って泣き疲れたりしてソファやラグの上でそれぞれ眠りについた頃、関羽は独り写真の
張飛と向き合い、改めて二人っきりの誕生祝をしてやっていた。

関羽は、義弟の為に贈り物を用意していた。
クリスマスにブレスレットを買った時、時計でも良かったかなあ、と迷っていた様子で、彼の腕時計がもう古くなっている事も
知っていたので、「じゃあ今度の誕生日に買おう」と言って約束していた時計と、張飛が亡くなった後に発売された、
彼がここ最近とてもファンだったというロックバンドの新しいアルバム。

――――もっとも、他の好みは良く知っていたが音楽には少し疎かった関羽の事、義弟がそのバンドの熱烈なファンだったと
言う事は、彼のアルバイト仲間だった友人から聞いて初めて知った事だったのだが。

張飛はさすがに好みの面で自分とは全く違い、二年前に課長に昇進してからは時々、自宅でも夜遅くまで仕事をすることさえ
あった義兄に対してはどうやら彼なりに気を遣っていたらしく、ちゃんとしたオーディオコンポもあったが張飛は自分の
アルバイト代でポータブルCDプレーヤーを買い、いつもそれにヘッドフォンを挿して好きなものを聞いていたので、
ここ二年くらいはもう、関羽は義弟がいつもどんな音楽を聞いているのかは、全然知らなかった。

(お前に、贈り物だぞ張飛・・・・・時計は去年のクリスマスに約束、してただろう・・・・?・・・あとは、お前が好きだった
バンドの新しいアルバムだ・・・・・でもわしはお前がどんな音楽を聴いているか知らなかった、だからこれは、馬超くんに
教えてもらったんだ・・・・・・・・・・・でももう・・・・・・・・・・・これからは何が欲しいのか、お前に聞くことは出来ぬし・・・・
・・・・・音楽の好みも、いつかはまた変わるものだろう。・・・・・だから、お前への贈り物は・・・・これで、最後にするよ)

もう決して開けられる事のない贈り物をそっと写真の前に差し出し、グラスをカチンと合わせてから一気に煽る。

そしてふと思いつき、張飛のCDプレーヤーを持って来て中にはまだCDが入ったままになっているのを確認し、関羽は
ヘッドフォンをそっと自分の耳に宛がって、義弟が好んでいた音楽に触れてみる。

それは確かに、静かなクラシック曲を好む関羽にとっては少し、苦手なジャンルの音楽だった。
でも、いつも明るく元気だった張飛には、至極相応しいと思えるものでもあった。
少し音量を絞って独りで聞きながらしばらくグラスを傾けていて、やがて少し酔いを感じ、そのままテーブルに
身を伏せて眠りに就く。
決して静かな曲ではなかったが愛する張飛の好んだ音楽を子守唄に、関羽は眠りながら涙を流していた。

                                   ++++++++++++

それから、半年。
間もなく一周忌を迎えようとする頃になって関羽はようやく、友人達が石碑を建ててくれたあの事故現場に、
足を向ける事が出来ていた。

香港の三月にしては、珍しく肌寒い日の昼下がりだった。
「・・・・・・・・ここに、来るのがずっと・・・・・・・・・わしは怖かったよ、張飛・・・・・・・・今でも、まだ・・・怖いが、な」
祈りを捧げながらそっと語り掛け、ふと目を開けた時。
関羽の目の前に、ヒラヒラと舞い落ちてくる白いもの。思わず手のひらに受け止めたそれは、雪。

立ち上がって空を見上げると、確かに今日は朝から少し曇ってはいたがいつの間にか空は真っ黒な雲に被われていて、
そこからは綿毛のような雪が次々と舞い落ち、やがて暖かな香港には珍しい、季節外れの春の雪模様となる。

関羽にはまるで、それは張飛からの手紙のように思えた。
やっと、この場所へ来る事が出来た自分に宛てた、遠い遠い楽園にいる愛しい義弟からの、手紙。


(・・・・張飛、お前か・・・・?    ・・・・・・・お前、なんだな・・・・?・・・・・・・・・)
手のひらで受け止めた雪が体温で溶けて消え去っていくのを、出来るなら止めたい気分だった。
『元気か、兄貴』
そんな声が、何処からか聞こえたような気がした。

(ああ・・・・・・・・・・わしは元気でいるよ、張飛・・・・・・・・・・・そっちの天気は、どうだい・・・・・・・・・いつかまた、
未来の何処かでわしらは逢えるかな、張飛よ・・・・・・?)
目を閉じ、心の中で愛しい彼からの手紙に返事を認める。

再び目を開けた時には雪はもう止みかけになっていて、黒い雲の切れ間からは日の光が地上に差し込んでいる。
彼に、返事は届いたのだろうか。

『逢えるよ、またきっと』
そう言って遠くでニコニコと笑う義弟の姿を一瞬、見たような気がして―――関羽はそっと指輪を撫で、歩き始めた。

いつかまた、彼と再び巡り会える日を信じて。
自分に残されているこれから先の長い人生を、彼の分まで精一杯生きて全うする為に。


もうすぐ、張飛の命日がやってくる。
そうしたらまた、集まってくる友たちと愛する義弟の為に、騒ごう。





−劇終−
*******************************************************************************************
2004.10.17 UP
2005.09.10タイトル変更
2005.10.07一部加筆・修正


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