「ワルイユメ」




吹く風に時折、薄着では少し肌寒さも感じるようになった、十月の半ばのある日。

藍翔は病院の一角の、病室にいた。
ベッドの上にある、ようやく元気になったと言える状態の弟を前にして今までしばらく隠してきた
重大な事実を、今まさに打ち明けようとしていた。

「実はな、燕・・・・   ・・・玩は・・・・・・死んだんだよ・・・・・・・・ 事故の時、ほとんど即死でな・・・・
助かる見込みなんて、最初からゼロだった・・・。 ・ ・・でも今日まで、俺はどうしてもそれを・・お前に
言う勇気が出なかったんだ。 御免な、本当に・・・・・・・怖かったんだ、お前が絶望して療養も、リハビリも、
全部諦めてしまうんじゃないかと・・・・・俺は、それが怖くて・・堪らなかった」

必要さえなければ、生涯こんな台詞は決して口にしたくなかった。
自分にとっても大切な親友だった”玩”――正式な姓名は、狼玩――が自身の弟と共に巻き込まれた
不慮の事故で急逝してから、もう三ヶ月余りが過ぎていた。

「・・・玩が・・・・・死ん、だ・・?・・・やめてよ、そんなの・・・・・・・・ いくら兄さんでも・・・言って良いことと・・・
悪い事が・・あるよね・・・?・・ 兄さんはいつからそんな・・・・・・嫌な人間に・・・なった・・?」

内臓の損傷と複数の骨折で相当の重傷を負い、最初の一週間は意識も定まらなかった藍燕だったが、兄は
狼玩も頑張っているからお前も頑張れ、とずっと励ましてくれていた筈ではなかったか。
そして何度かの手術も経てようやく殆どの怪我が癒え、リハビリも進んでほぼ元通りの生活が可能な状態まで
回復して退院の予定も決まった今、その兄の口から改めて告げられた言葉は、藍燕にとってとても信じられるものではなかった。

兄の言葉を否定する声がつと、震える。

それからもずっと頑なに認めようとはせず、退院した日にとうとう止めるのも聞かずに狼玩の住まいを訪ねた藍燕だったが、
結局そこで紛れもない現実を受け止めざるを得ない事になった。

「・・・玩、玩・・・・・・僕だよ、燕・・・ねえ、いるんでしょ・・・」

既に携帯電話が通じなくなっている事は確認していたが、それには他の理由があったかも知れないから、彼が居ない証拠だとは
認めなかった。 工場のシャッターは下りていて事務所も閉まったままになっていたが、二階の住まい部分のドアをドンドンとノックし、
やがて中から鍵が開けられる音がして藍燕は兄の言葉が全部嘘だったと安堵しようとした。

「・・・・・藍燕さん・・・・・?・・・どうして・・・」

だが間もなくドアが開き、そこに現れたのは狼玩ではなく、彼の弟・狼雲。
そしてひどく困惑した表情で疑問の、言葉。

「・・・・・ああ、狼雲、御免な・・・・・・どんなに言い聞かせても、燕がどうしても玩のこと、納得してくれなくて、な・・・・止められなくて、
本当に済まん・・・」

半ば、ドアから引き離すように弟の肩を強く抱き、藍翔はとにかく申し訳ない気持ちで一杯のまま、言葉少なに事情を、告げる。

「・・・そう、すか・・・・・・・   ・・・燕さん、やっと退院出来たんすね。 ・・・・・いいですよ、折角来てもらったんだし兄貴に・・・・・
会ってやって下さい。 兄貴もきっと・・・・喜びます」

薄いカーテンが引かれたままの少し薄暗い室内へ促され、そして奥のリビングの一角に作られた簡素な祭壇へ、通される。
それを目にした瞬間藍燕の身体はピクッと震え、咄嗟に近づくのが怖いという様子で身構える。

「・・・・・ホラ、燕・・・・・・・玩に線香、焚いてやれ・・・・・・・・・・ あいつもきっと、ずっとお前に会いたかっただろうから・・・・・・・」

自身は葬儀にも参列し、その後も月命日には仕事帰りの夕方必ず訪れて線香をあげ、藍燕の容態などを報告していたが、
もはや何を問うても、何を話しかけても返ってくる返事は無く、火が消えたようにひっそりと静かな空気は肌に辛くて、それ以外に
ここを訪れる事は、無かった。

「・・・・い、やだ・・・・   ・・・嫌だ、よ兄さん・・・・   何なの、これ・・ どうして・・・・・・・?」

何も信じたくない、という表情で身を捩り、ただただ拒絶する。 白い布が掛けられた小さな祭壇の上には花が添えられ、
人懐っこい独特の笑顔を浮かべた 狼玩の写真と共に、位牌が置かれて香が焚かれている。
その傍には、一目で破損している事が判る見覚えのある携帯電話や、長年愛用していた腕時計なども一緒に置かれている。

「・・・・・燕さん・・・兄貴と、どんなにも仲良かったから信じたくない気持ちは・・解りますけど・・・・・・・・・・でも、兄貴はもう・・・・
いないんです・・・・・・・ ・・・・それは、認めてやって、もらえませんか・・・・・・・じゃないと、兄貴・・・・ きっと・・・・浮かばれない・・・・
・・・・・・だから、どうか・・・・・・・」

藍燕の拒絶する態度を諫めるように、俯いたまま狼雲はポツリポツリと言葉を、発する。
その頬を濡らす涙は突然失ってしまった兄への思いを甦らせたか、それとも藍燕の見せる痛々しい拒絶への憤りの為か。

「・・・・僕には・・・・・解らない・・・・・・こんなの・・・絶対、おかしい・・よ ・・・・・・だって、この前だって、僕は玩と・・・・・・・」

実際にはもう三ヶ月余りも経とうとしていたが、生死を彷徨う重傷を負って事故前後の一部の記憶も完全に失い、しばらくの
寝たきりで時間の感覚を失っていた時期があったこともあり、最後に狼玩に会ったのはまだほんの先日のような感覚しかなかった。

藍翔は製薬会社に勤めるサラリーマンだが藍燕は自宅で小さな工房を構える木工関係の芸術家で、狼玩も個人規模の整備工場
自営とお互いに気ままな部分があった為か狼玩の仕事が暇な昼間にちょっと話でもしに遊びに来いよ、と誘いが掛かる事も多く、
自宅に篭っての作業が多い藍燕も良い息抜きになるからと応えることが多かった。
また、狼玩の馴染み客は近所の顔見知りが多く、工場は兄弟二人で切り盛りしていた都合、整備や修理を待っている間普段は
事務所でいくつか置かれた雑誌を読んだり、或いは少し時間が掛かる時は他所へ時間を潰しに出るしかなかったが、藍燕が
来ていれば話し相手が居て丁度いいと喜んでくれる人も少なからずおり、狼玩はいつもその事を感謝し、その礼としてよく映画や
スポーツの試合のチケットを買って藍燕を誘い、一緒に楽しんでいた。

でももう、その彼の姿はここにはない。

事故の当日とその前後数日程度の記憶をそっくり失ってしまっている藍燕の中にある最後の狼玩は、以前最後にここに来た日、
その次の休み―つまり、事故に遭った日―に一緒に行くはずだった映画の話をして、それから次の月初めての個展を開く予定だった
藍燕に、実際はあまり芸術の事には明るくなかったものの、弟や妹も誘って見に行くからと約束をして、笑ってた姿だけ。

臨終や葬儀に立ち会って彼の死の実感を持てる状態ではないまま、遺影と位牌だけを見せられても納得出来なくて、受け入れられないのだろう。

「もう、よせ・・・・・本当に本当に辛い事だけど・・・これが現実なんだよ、燕・・・ ・・・・・・・玩は本当にもう、いないんだ・・・・・・・・
俺だって、出来ることならこんなの、悪い嘘であって欲しいとどんなにも、何度、思った事か!」

藍翔は包むように、しかし少しだけ力を込めて弟の身体をぎゅっと抱き、それから優しく諭すように言葉を発した後―――
つと吐き捨てるように自身の無念の気持ちを吐き出す。
その兄の言葉に、藍燕の絶望感と喪失感は一気に加速され兄の腕に抱かれたまま、初めて号泣する。

藍翔自身、子供の頃から実弟とは別の弟分として彼との強い信頼関係を築き、子供の頃は病弱で周りの子と比べると身体も小さく、
遊び相手も少なかった同い年の藍燕をずっと大切に、仲良くしてくれた彼の事を思うと本当にやり切れず、泣きじゃくる弟の身体を
もう一度そっと抱きしめ一緒に、涙を零す。


藍燕は救急隊が到着した時まだ若干意識があり、自身も重傷を負って激しい痛みに呻きながらも自分のすぐ傍でうつ伏せに倒れ、
しかしもはやピクリとも動かない狼玩の名をずっと、うわごとのように呼んでいたと聞いている。

―――その時狼玩はほぼ即死に近い状態で、現場で一応蘇生処置も施されはしたが既に助かる見込みはもう、無かった。

でも、瀕死の重傷の中、ほんの僅かに意識が定まる度親友の名を呼んでは容態を案じるばかりの弟の姿は余りに痛ましく、
藍翔はとにかく弟に持ち直して欲しいと思う余り、ついてはいけなかった嘘を、ついてしまった。
それが事実藍燕の気持ちに幾らかの安心感と励みを与え、治療の為数回に亘って必要だった手術も、その後の辛いリハビリも、
ただ少しでも早く元気になって、親友に会いに行きたい。
そんな前向きな気持ちだけを彼に与えていた事は、真実ではあったのだが。


しかし、本当の苦しみはそこからだった。


親友が突然居なくなった悲しい現実を三ヶ月も経って一気に実感し、涙が枯れるほど散々に泣いた藍燕はそのまま急激に生きる気力を失い、
本人が天職と自負して才能を磨いていた作品作りも全く手を付けるどころの状態ではなくなり、読書や音楽鑑賞など趣味として嗜んでいた事にも
一切興味を持たなくなって、家に閉じこもり毎日カーテンを閉め切った薄暗い寝室でベッドにぼんやりと横たわったまま、過ごすようになった。

そんな彼の顔からは表情が消え、食事も部屋へ持って行ってやり、一人にしてやるとようやく少し口にする程度しか採らず、弟自身の容態を
心配しての事だったとは言え、余りに悲しい嘘で自分を欺いた兄に対する信頼も完全に失ってしまっていた。

そして時折、何かを思い出したように突然激しく泣き出しては親友の名を呼び、ひとしきり泣いた後はすうっと意識を失うように眠ってしまうような、
そんな事もあった。
夜中にふと目が覚めると隣にあるはずの弟の姿が無く、慌てて探すと寝間着姿のまま、アパートの廊下に出て地べたに座り込み、ただぼんやりと
空を見つめているような事さえもあった。


心が壊れる。


藍燕の状態はまさにそれをそのまま体現しているような、そんな状態だった。

藍翔は、お世辞にもまともとは言い難いそんな状態の弟を部屋に一人遺して仕事に行くわけにもいかなくなり、事情を話して看病のための休暇を
貰い、毎日藍燕の傍に付きっきりで世話をしていた。

“玩に、会いたい”

ずっと寝ているだけで生活行動のほとんどを放棄している弟の為、毎日身体は拭いてやっていたが、藍燕は決してもう、兄の顔を見ようとはしなかった。
藍翔が何か欲しいものはないかと尋ねても、背を向けて横たわったままの弟から返ってくるのはいつも決まってその一言だけ、だった。

そしてそう言った後はホロホロと涙を零し、ただ泣くだけ。

藍燕にとって、たった一人の兄・藍翔と何よりも大切だった親友の狼玩という二人の人間はそれぞれ、彼の心を支える天秤の両側で
釣り合いを保っていた錘のような存在であり、どちらが欠けても駄目だった。
しかも、幼い頃病弱だった所為か、元々同年代の男性と比べると精神的に非常に脆い部分があった上、狼玩との別離は突然の死別という、
余りに辛すぎる出来事だった事もその影響を倍加させていた。

捉えようによっては自らの死を以って、彼岸に行った親友との再会を願っているようにすら思える藍燕の「会いたい」という言葉は、藍翔の心にも
次第に重く圧し掛かる。
狼玩と彼の兄妹とは子供の頃から実に長い付き合いを持っていて、藍翔の手元にも幾つか 彼の姿が収まっている写真やホームビデオも
存在はしていたが、今の弟の様子を見ていると写真やビデオで過去の親友の、楽しそうな姿を見せる事は逆に良くない方向へ向かわせて
しまいそうだったし、何より自分自身そういう物を見るのはまだ辛くて、自分の机の鍵の掛かる引き出しに、仕舞い込んで隠してあった。

(・・・・・俺一人の力ではもう・・・限界かも、知れん・・・・)

藍翔に許された休暇は一ヶ月だったが、その半分を既に消化しようとする頃彼も次第に精神的な疲れを感じて弟が完全に寝付いた後の夜遅く、
酒を飲みながら深い溜息を吐くことが増えてきていた。

元来酒に強い身体ではなかったので狼玩や、その他の友人との付き合いにほんの少々嗜む程度が精一杯だった筈なのに、自身にも未だ
ショックを残したままの親友の死の現実と、弟の苦しむ姿に与えられる強いストレスがそうさせていたのだろう、少しでも気を紛らわせようと
煽るように飲んでは酔いに任せてウトウトと少し眠り、そして目覚めて気分が悪く、飲んだ酒を全部吐いた後気持ちを落ち着けようとまた口をつける。
日を追うごとにそんな良くない飲み方さえ、するようになっていた。


藍燕にはもはや、藍翔のどんな言葉も届かなくなり始めていた。
藍翔自身は決してそうなる事を望んでいる訳ではないのだが仕事のほうもいつまでも休む事は出来ないのは確かで、病状が思わしくないので
あれば入院や然るべき施設へ預ける事も考えるべきではないかと、時折電話で様子を伺ってくる上司からは藍翔自身の疲れももうかなり危険な
レベルまで達している事を感じ取られて勧められ始めていて、だから余計に焦る気持ちがあった。

生きるための生活そのものはもう殆ど成り立っていないので、単に家政婦や介護士の手を借りれば解決できるような状態ではない。
今の弟の状態で入院を求めて受け入れられる病院はもはや精神科以外にはなく、預って貰える所もそれに類する障害を発している人の
専門施設だけだろう。
そもそも弟をこんな状態に追い込んでしまったのは自分の責任であると思う気持ちもあり、そんな所へ簡単に預け、逃れてしまっていい気にだけは、
どうしてもなれなかった。

弟にとって一番大切だった親友の死を告げるタイミングを、誤ってしまったように思う。

狼玩も懸命に頑張っている、容態は重いが頑張っているからとただ希望を持たせたまま、やがて藍燕本人が自分から薄々悟る時が来るまで決して
事実を伝えなかった方が或いは、良かったのかも知れない。

(・・・・なあ、玩・・・・・・・俺はもう、どうすれば・・・良い・・・・・? もしも、あの日に時間が戻せるのなら・・・・・・俺はどんな事をしてでも・・・・
お前を助けて・・・やるのに、な・・)

極度の精神的疲労と、弟の奇行を案ずる余り睡眠時間を最低限まで削っている肉体的な疲れが自身の神経をも次第にすり減らし、今日もまた
酒に口をつけながらぼんやりと心では 亡くした親友へ語りかけ、問いかける。

今までに二度ほど深夜、いっそ弟を殺して自分も死のう、それで全てが解決できると衝動的に包丁を握り、思い詰めた事もあった。

でも、いざやろうとすると、どうしても出来なかった。

そして自分にはそんな意気地さえないのかとふと我に返って情けなくなり、そしてまた酒を煽る。 藍翔の心も次第に壊れる状態へ日々近づいて
いる事を自分自身で薄々、感じ取り始めていた。


『私はリアンと言います。故あって素性は一切明かせませんが、 貴方に一度だけチャンスを差し上げましょう。
但し、このことは永久に誰にも他言してはなりません。
もし秘密が破られる事があった場合は全てが幻となり、貴方は今の生活に 逆戻りするのみ・・・・・
しかしこれから貴方が体験する全てと、既に経験してきた悲しい記憶を 心の奥底に固く封印するなら、
取り戻した時間はそのまま現実となります。
貴方に秘密を守る自信があるなら、(409)-truecallまで連絡を下さい』


(・・・・・・なんだ、夢・・・だったのか・・・・・・・・)

何とも言えぬ不思議な夢から虚ろに目が覚め、視界に認めたのはカーテンの隙間から 僅かに差し込む朝日の光と、テーブルの上に転がる酒瓶、
4分の1ほど酒が注がれたまま残っているグラスだった。

どうやら、昨夜は飲んだままソファで昏々と、眠り込んでしまったようだ。

それからハッと気がついて寝室を慌てて覗きに行くが、幸い藍燕は昨晩はちゃんと、眠っていたようだった。
元々小柄な身体をベッドの端のほうに寄せ、背中を丸めて横たわった姿は更に小さく見え、しかし傍に行ってみるとその眠る表情はとても穏やかで、
何処となく微笑んでいるようにも見える。

目が覚めている間は決してもう、見せることの無い優しい表情。

さすがに、夢の中を覗く事は出来ないのでどんな内容かは判らないが、少なくとも 今の彼にとって辛い夢で無い事だけは判る。

突然の、余りに悲しい出来事の為に過ぎた時間はあっという間ですっかり忘れてしまっていたが、ふと目をやったカレンダーで
昨日が生きていれば二十七歳になっていた筈の狼玩の誕生日だったという事に、気付く。

毎年、互いの誕生日にはそれぞれの兄弟妹(きょうだい)も皆交えてささやかな贈り物をし、食事をおごって祝い、一緒に楽しく過ごすことを長年、続けていた。
もしかすると、今弟は夢の中で、本当なら今年も祝うはずだった親友の誕生日を迎えているのかも知れない。
きっと今までがそうであったように、そこには楽しかったままの時間が、あるのかも知れない。

思わず、両目には涙が滲む。

既に現実としては行き詰りを覚え、自身までも押しつぶされそうな不安に苛まれていた藍翔は叶う事なら、いっそこのままもう藍燕が目覚めず
夢の中でだけでも幸せであって欲しいとさえ、思った。

だが、普通に眠っているだけだからやがて、自然に目は醒めてしまう。
そしてまた、弟は親友がいない現実に引き戻されて悲しみ、苦しむだけ。
もう祝うことも無く誕生日すら静かに過ぎてしまった、現実。

ふと目に入った箪笥の脇の姿見に映った、剃らないままの無精髭が疎らに伸び、疲れも色濃く浮かんだ、生気もすっかり失せ果てて青白い顔をした
自分の姿にも、愕然とする。
何の光明も見えない今の生活が一体いつまで続くのかと、強大な不安に急激に襲われる。

藍翔は先ほど自分が見ていた夢が頭から離れず、夢の中で自分に話しかけてきた相手―眩しすぎる光の中から聞こえてきたので顔などは何も判らないが、
”リアン”と名乗った男性の声―の言った電話番号がどうしても気になって、弟がまだもうしばらく夢の中に居てくれる事を願ってそっと寝室の扉を閉めて出ると
受話器を取り、電話を掛けてみる。

記憶の通りに番号を押したが、少しの間何も聞こえなかった。

(・・・・やはり、有り得る訳は無いか・・・・)

夢に出てきた電話番号に電話をしてみるなんて俺もとうとう、と自嘲し諦めて切ろうと受話器を耳から離そうとした瞬間、突然プツッと回線が繋がるような
音が聞こえて呼び出し音が鳴り始める。

(・・・・え・・・・・、・・・・・)

思わぬ展開に急にドキドキしながらそのまま待っていると数回の呼び出し音の後、応答が来る。

『もしもし。お待ちしてたんですよ、貴方は藍翔殿、そうでしょう?リアンです』
電話に出た声は、夢の中で聞いたあの声に確かに間違いなかった。

「・・え・・っ、あ・・・・・ああ・・・そうです・・・  そうですが・・・・ ・・・・俺に一度だけチャンスをくれると仰った、それは一体どういう事なのかと」

もしやこれはまだ夢の続きか、と本当に繋がった電話に戸惑いの気持ちを感じながら、藍翔はまず自分の中にある疑問を口にする。

『ええ・・・・それは実に至極、簡単なことです。しかし、私の口から直接説明する事は出来ません。・・・・・・私を信じるか、信じないかは勿論貴方の
自由ですが、もし信じるお気持ちがあるのであれば、今から固く目を閉じ、そしてゆっくりと十数えてください。
信じないのであればどうぞこのまま、電話を切ってくだされば結構です。それで全て、無かった事になります』

藍翔の中にはこれから何が起こるのかという不安と、藁をも掴むような思いの二つの気持ちが交じり合っており、しかし元はといえばそもそも夢の中に
出てきた事なのだしなるようになれと感じる気持ちもあり、思い切って”リアン”の言葉を信じてみる事にする。

「・・・理解りました、俺はあなたを信じて、みます。・・俺ももう正直、疲れた・・・・・ 例え、これから何が起こったとしても・・・・・
きっと、今以上に悪い事なんて・・・・何もある筈がない・・・・」

リアンへの告白とも独り言とも付かない言葉を呟きながら、藍翔は受話器を宛がったまま そっと目を閉じ、胸の中で言われたとおりに数を数える。

そして数え終わる頃ほんの一瞬、すうっと冷たい風が頬を撫でて吹き抜けたような感覚を、覚えた。


――――――――――。


「・・・・・さん、兄さん・・・・・ねえ・・?」

身体を揺すられ、呼び掛ける声にようやく重い目蓋を上げると、何処か不思議そうな表情で、でも少し心配そうな感じで、顔を覗き込んでいる藍燕の姿があった。

「ンン・・・・・燕・・・・・?   ・・・・・・燕!!」

しばらくもう、まともに言葉を交わすことも無かった筈の弟が急に元気になっている姿を認識すると思わず飛び起き、そのまま抱き締める。

「わッ、ちょ・・っ、いきなり何だよ兄さん・・・全くもう、朝っぱらからよしてよ・・・TVもつけっぱなしのまま、こんなとこで寝てるもんだから
何かあったのかと思ったんだけど、大丈夫?」

寝起きの兄に突然抱きすくめられ、藍燕は非常に困惑気味な反応を返してくる。
それは全く、以前のままの彼の姿。

確か電話を掛けていたはずの自分も気が付くとソファで眠っていたらしく、何が起こったかはまるで解らないが、とにかく弟は元気になっている。

『お早うございます。香港電視台七月十日、朝七時のニュースです』
その時TVから流れてきたアナウンサーの声が告げた日付が耳に入った途端、藍翔は戸惑う。

(ええ・・、七月・・・・・?もう十一月の筈、なんだが・・・・・・・・?)

日付を知った途端に、藍翔の脳裏に急激に色々な記憶が甦り、そして再び”リアン”の声が聞こえる。

『藍翔殿、チャンスの意味が・・・お分かりになりましたか?但し、最初にお伝えした 約束は決して・・・・お忘れにならぬよう』

何処から聞こえるのか不思議なその声が告げる言葉を朧気に把握し、自身の記憶を探る。


(・・・・・七月十日・・・七月十日・・・    !!!・・・・これは・・・・ あの、日だ・・・・・・・・)

藍翔は敢えてはっきりした言葉として考えるのは止めたが、頭の中ではもう大体、事情を把握し始めていた。

“リアン”の与えてくれたチャンスとはまさに、あの事故が起こる前からをもう一度やり直すという事だったのだ。
勿論、既に一度経験した「あの日」の自分には何が起こるかなど知るはずもなく、だからこそ不慮の事故で親友は命を落とし、
弟も重傷を負ったという悲しい結果を招いたのだが、今の自分は今日これから数時間後に起こる筈の「事故」を知っている。

今日どうにかして狼玩の命を助ける事さえ出来れば、自分が元いた筈の「未来」には今もあるであろう、悲しみと苦しみしか残っていない弟は
当然消えていなくなり、ここから先は今傍にいる「以前のまま」の彼と、そして狼玩との、幸せな元通りの暮らしが再び続いていく事になる。

リアンの言った、「秘密」とは、未来を事前に知った上でこれから書き換えようとしているという行為自体か、もしくはそれを可能にさせた謎の男性
”リアン”の存在そのものか、それとも全てか、具体的に何を指すのかは判らないが、とにかく一度は体験した「事実」を自分の中に封印さえすれば、
新しい未来に摩り替えられるという事だ。

(・・現実にこんな事が起こるとは、俄かに信じ難い気も、するが・・・・・・・・・ だが、事実俺は今ここに、いる・・・・まだ、何もかもが元通りのままの、
七月の・・・あの日に・・・・ああ、燕がこんな風に元気な姿でいるのを見るのは・・・・・・とても、久しぶりだな・・・・・・)

脳裏には元の世界の、もうまともに言葉を交わすことも、いや自分の顔を見ることさえ拒んでいた藍燕の姿が思い出され、今目の前にある元気な姿の
彼をしばし、ぼんやりと見つめる。

「・・・・兄さん?何?もしかして僕の顔になんか、付いてる?・・・何でもないなら そんなにじっと見ないでよ、さっきから何か変だよ?」

だが、勿論今ここにいる藍燕はそんな未来の自分の姿など露ほども知るはずは無く、兄の不審な態度をただ、気味悪がる。
でも、しばらく悲しく痛々しい姿しか見てこなかった藍翔にとっては例え、弟に気味悪がる態度を取られてもそれすら、嬉しかった。

「・・・・ああ、そうだ・・・・なあ燕、今日確か玩と映画とか、行くんだったよな?・・・・ 急で悪いけど、折角だし俺も一緒に混ぜてもらっても、いいかなあ」

ふと、心に思いついて切り出す。
だが間もなく、怪訝そうな表情で藍燕が問い返してくる。

「ええ?・・・・兄さん、何言ってんのさ・・・・・この前僕が誘ったら、兄さん今日は仕事の会合があるって、言ったでしょ?・・ねえ、ちょっと本当に、大丈夫?
もしかして熱でも有るんじゃ・・・・」

弟の言葉に、咄嗟に記憶を辿る。

そうだった。

事故の起こった日、藍翔は自身も携わっている他の製薬会社との共同研究に関する会合に上司と共に出席しており、会場で事故の連絡を受けて
病院へ駆けつけたことを思い出す。

「・・・・あ、・・ああ・・・・・そう、だったな、済まん・・・・いや、多分ちょっと 俺まだ、寝呆けてたみたいだ。大丈夫だ、熱はないよ」

既に先の記憶を持ってるが故に思わず先走っての失言だったが、幸いと言うかまだ寝起きの直後の事だし、何とかその場は誤魔化す。

「確か大事な会合だって言ってたのに、そんなので本当に大丈夫なのかい、兄さん? このところ毎日暑いし、どっか頭の血管でも切れちゃったり
してるんじゃないだろうね・・ ・・・・やめてよ、後で突然バッタリ倒れるとか、そういうのは」

「はは・・・・・大丈夫、それはないから安心しな。・・・・取り敢えずシャワーでも浴びてくるかな、会合九時からだからまだ十分時間あるし」

事故の起こるとき、もし一緒に居られれば行き先や少しの時間の違いで事故に遭う事そのものを防げるかと思ったが、変えられない予定が自身には
あった事を思い出し内心、焦る。
風呂場の鏡で改めて見た自分の顔には伸びていたはずの無精髭は無く、まだ寝起きゆえの多少ぼんやりした感じはあるがあの疲れ果てた表情さえ
今は何処にも無く、顔色も普通に良い。
やはり時間が戻っている事は確かな事実らしいと感じる。

「・・映画、何時の回で見に行く約束してるんだ?」
シャワーを浴び終え、身支度をある程度整えて朝食の食卓に就いた藍翔は確認のため、弟と親友の行動を少しでも把握しておこうと、ふと問う。

「んん、別にそんなに早く行かなくても良いし、玩は昨夜飲みに行ってる筈だから多分起きるのも遅いだろうしで、十一時二十分の回始まる前くらいに
三星劇場前で会おうかって話はしたけど」

元の世界での今日、行く前にこんな話はしなかったのだが、実際二人が事故に遭ったのは十一時過ぎで、現場は映画館より少し離れた場所。
約束どおり映画館の前で直接待ち合う予定だったのなら、その時二人はまだ一緒に居るはずは無かった。

という事はこの後予定より早い時間に何らかの理由で別の場所で先に会い、一緒に行くことになるのだろうということが推測できる。

「ふうん、そっか・・・・ああでも、三星劇場より、ちょっと遠いけど銅鑼湾の大洋電影館のほうが、出来たばっかりだから設備も綺麗だし
あっちでも同じ映画はやってるみたいだから、良いんじゃないのか?」

新聞を読んでいるついでに掲載されてる上映情報の記事を調べ、見る予定だと聞いた映画が別の映画館でも上映されている事を確認して、
行き先を変える可能性を探る。

「あー、そうなんだ?僕あそこの映画館も行ってみたいなあとは思ってたんだけど・・・・ でも券は玩が買ってる筈だから多分三星劇場だね、今日は」

これも、失敗だった。
この香港では映画の券は買った映画館でしか使えない場合が殆どなので、既にもう買っているとなると行き先を変える可能性は、低い。

「そっか・・・・先に調べておけば良かったな、大洋電影館もお前が行ってみたかったんならせっかく同じ映画やってるのにな」
「んん、そう言えばそうだね。・・・・まあ、次にまた何か見たいのあったら、今度は調べてからにするよ」

“次に” “今度は”
そんな何気ない言葉さえ、藍翔の胸には痛みを与える。

もしこの後起こる出来事からどうにかして弟と狼玩を救うことが出来なければ、藍燕にはもう、今日から先に楽しい生活など恐らく二度と、ない。
夜中に思わず包丁を握り締めさせる事すらあったあの辛く悲しく恐ろしい衝動を、自分自身二度とは味わいたくない。


朝食を済ませ、会合に持参する資料などの書類を確認し、揃えて時間に間に合うように家を出た藍翔だったが、頭の中では
この後狼玩と藍燕の行動をどう把握し、如何に事故から彼らを守るか、そのことでいっぱいだった。


十時ごろ。
約束までまだ時間もあるしと先日から製作に取り掛かっていた木彫りの大まかな型出し作業の続きを少ししていた藍燕は、電話に気付く。

「もしもし?・・・ああ、お早う玩?起きた?」
程なく相手が、親友であることを把握していつもの穏やかな口調で、話す。

「燕、オハヨー・・・・   ・・ウン、今しがた目ェ、覚めた・・・・・・なあ、今日は雲も朝から出かけちゃっていなくて、メシが何もなくてさあ・・・・・
適当に軽いモノでいいから、映画行く前にちょっとどっかで何か食わねえか?終わるまでメシ抜きじゃ俺、餓死しちゃうよ」
予定していたのと実際の状況が食い違っていたのは、こんな些細な話が原因だった。

「ふふ、もうしょうがないなあ、玩は・・・・僕は兄さんと朝食はもう済ませてるけど、 飲み物くらいなら付き合うし、良いよ。・・判った、じゃあ
十時半に湾仔バスターミナル前の天正楼で」

気心知れた間柄だこそ大袈裟な言葉にもただ笑って返し、会う時間を早めて約束し電話を終えた藍燕はやりかけていたものを適当に片付け、
支度と戸締りをしてから家を出る。


十一時少し過ぎ

「・・・部長、スイマセン・・・俺急に、腹の具合が・・・・・便所行ってきます・・」
“元の世界で事故が起こった時刻”が刻一刻と迫る中で時計をチラチラと確認しつつ、どうにか狼玩か弟に連絡を取れる機会を伺っていたものの、
何分昼食休憩の時間にはまだ少し早く、しかしもう時間がないと焦った藍翔は隣の席の部長に小声で腹の具合が悪いように装って声を掛け、
口実を作って会合を抜け出す。

急いでいる振りをして男性用トイレの個室に駆け込み、使っているように装いながら ポケットから携帯電話を取り出して電話を掛ける。

腕時計の針は、事故の時刻までもう幾分も無い事を示していて、とにかく間に合ってくれる事を祈りつつ呼び出し音を待っていると本当に
腹が痛くなりそうなほどの緊張を覚える。

『・・・もしもし?・・・あっれェ、藍翔、なんで?』
数回の呼び出し音の後、電話に出た懐かしい声。

「・・・あ・・・・・、ああ・・・あのさ、玩お前今、どこ?」

弟へ掛けるつもりだったのだが狼玩の事を思う余り、無意識に彼の番号を選んでしまったようだ。
しかしとにかく、間に合ったようだ。

『ええ、どこって・・・・・燕と一緒に今しがた天正楼で軽くメシ食って、これから映画見るんで三星劇場に行く途中だけど?それがどうかしたか?
・・・つうか、何で俺に電話なんて?燕に代わろうか?』

弟が以前と変わらない元気な姿でいて、TVのニュースが七月だと告げたのも確かだったが、 何も変わらず、元気で居るままの狼玩の声を聞いて
改めてここが、過去の世界である事を幾重にも実感する。

事故のとき彼はほぼ即死の状態で、自分が病院に駆けつけたとき既にもう、物言わぬ冷たい亡骸となって静かに横たえられていた。
彼と最後に話したのは、元の今日からは何日前の事だったのだろうか。

そんな複雑な気持ちを感じながら、しかし何も悟られてはならぬと精一杯声色は普通に、装う。

「ん・・・ああ・・・・そうか・・・・ああ、いや・・ あのさ、亜鈴商業区ってそっから近いよな、確か・・・・・実は、出かけてるついでに、CD・・・・
買っといてもらえねえかなと、 ・・思ってさ」

狼玩が何気なく告げた、立ち寄った店名から今居るであろう大体の位置を把握し、向かう方向とは少し逆の位置にある店名を、出す。

『ええ・・・何だよそれェ?マジなんでそんな事、燕じゃなくわざわざ俺に頼むかな?』

狼玩にしてみれば、確かに長い付き合いの親友ではあるが自分が一人で出かけているのならともかく、実弟が一緒に居るのに使い事を頼むために
電話をしてきたなど、不自然以外の何でもなかっただろう。

「んん・・・あの、それはな」
理由をどう答えようかと必死に考えつつ取り敢えず会話を続けようと言い出しかけたその時、電話の向こうの少し遠くで激しい物音と、同時に人間の悲鳴が聞こえてくる。

『・・・えッ・・・  ・・・・ちょ、マジかよ・・・・・・・・嘘だろ』
間もなく、信じられないという感じで独り言のように発せられる、狼玩の言葉。

「どうした、何があった・・・・・?」
何が起こったのかを確認するため、問う。

『じ、事故だ・・・・・・・そこの、建設現場の鉄骨が・・・・・落ちた・・・? ・・・人が・・・・・何人か、・・・下敷きに・・・・・・』

その、今まで感じた事の無い生唾を飲むような息遣いに、突然目の前で起きた凄惨な事故のショックが強く伝わってくる。

「・・ええ・・・・・お前も燕も、大丈夫か?」

事故の状況は既に知っているから、二人が無事なのは言わずとも判っていたが一応、確かめる言葉を、発する。

『ああ・・・・幸い俺らはなんとも、ないけど・・・・・・   でももし・・・・もう少し向こうまで歩いてたら本気でヤバかったと、思う・・・・』

電話の向こうの音なのではっきりと聞き取れはしないが、突然の事故に混乱している人もいるのだろう、怒声とも悲鳴とも付かない人の声などが、通話口に拾われ
途切れ途切れに聞こえているのが判る。

「・・・・・おおい、藍君・・・・随分長いが、大丈夫かね」 そこへ、なかなか戻らない藍翔の事を心配したらしい上司が様子を伺いに来たらしく問う声が聞こえてきて
藍翔は慌てて水を流し、これ以上は話をしていられないと諦めて、通話口を押さえて上司へ返事をした後、小声で手早く、電話を終える。

「・・・・あ、はい・・・・大丈夫です・・・・もう出ますから・・・・・・・・・御免、俺会合の途中だったんだ・・・・・俺から電話しといて悪いけど、切るよ。
事故なら混乱もあるかも知れんから、もしあれなら今日は家、帰っとけ・・・じゃあな」

腹が痛いと席を離れてきた都合上、携帯をポケットにしまうと実際はなんとも無いが一応腹をさすりつつ個室から出て、手を洗って出ると
入り口の辺りで少し心配そうな表情で上司が待っていた。

「ああ藍君、もし具合が良くないのなら無理はせんで良いから、帰るかね?」
「いえ・・・申し訳ないです。・・朝飯の食い合わせがちょっと、悪かったみたいで・・・スイマセン、もう大丈夫ですから」

不自然でないように当たり障りの無い言い訳で答えてその場を装いつつ、何とか目的は成し遂げられた安堵感を感じていた。
狼玩と弟が今からどう行動するのかは把握できないが、少なくとも彼らを、本来なら遭う筈だった事故から護ることは出来た。

これできっと、元の未来に居たはずの痛々しい姿の藍燕は消えて、いなくなっただろう。

(・・・元の世界の燕よ、俺のせいで辛い思いしかさせられなくて本当に、済まなかったな ・・・・もう二度と、お前をあんな風には、しないから・・・・・)

一度経験した未来は、この先永久に自分の心に封印しておけば、全て無かった事になる。
自分は長い長い、とても悪い夢を見ていたのだと・・・・そう、思うことにして上司の後に付き、会合に戻る。


「・・・・ただいま」
午後三時過ぎ。
会合を終えた藍翔が帰宅すると藍燕は帰宅しているようだったが電話中らしい声が微かに彼の部屋のほうから聞こえていて、狼玩も来ていた。

「おう、藍翔お帰りィ・・邪魔してるぜェ。燕はちょっと前から、電話中」

ソファにどっかりと腰を下ろしたまま、戸口に帰宅した自分を見てヒラヒラ手を振りつつ明るく挨拶の言葉を投げ、それから弟の所在も彼なりに気を利かせたのだろう、
問うてもないのに教えてくれる。
藍翔の中の時間でだけは実に三ヶ月余りぶりの、以前と何も変わらぬ元気な親友の姿。 彼は確かに生きている。
もう済んだ事だから忘れなければと思いつつ、本当は今日、四時間余り前のほんの一瞬の出来事で彼は命を奪われ、もう二度とこうして会うことも、話す事も
出来なくなっていた筈だったと思うと胸が締め付けられ、鞄を置いてネクタイを緩め、ソファに歩み寄ると同時に思わず狼玩の身体をギュッと、抱きしめる。

「・・・?・・・おいおい藍翔、何だよ、一体どした・・・・?」

一応はされるがままに抱擁に応えつつも、ちょっと戸惑った様子で問う、声。

「お前も燕も・・・無事で、本当に良かった・・・・・昼の休みに事故のニュースを 食堂のTVで見てな、もしお前たちがあんな事故に遭って、大怪我でも
してたらと思ったら、急に怖くなっちゃって・・・・・丁度あの時お前と電話してたから、改めて無事な顔見たらつい、な・・・・・」

その答えの言葉に、狼玩もすっと優しい表情を浮かべ、少し照れ臭そうに藍翔の身体を抱き返す。

「ウン・・・・・そっか、有難な・・・・・優しいんだな、お前・・・・・・・・ でも、大丈夫だ。俺も燕も、事故には直接遭ってなくてなんとも無く、無事だったんだから、な?
もう、心配ない、忘れて良いんだ」

狼玩の言葉に、藍翔は思わずハッとする。

“忘れていい”

そうだ。
こんな事はもう、綺麗サッパリ忘れて構わないのだ。

「凄惨な事故に遭う筈だった」事も「狼玩は亡くなっていた筈だった」事も、今となってはもう全て、済んだ事。それを知っている自分さえ全て忘れてしまえば、
それで良いのだ。
狼玩も、弟も、かすり傷ひとつ負うことなく、元気でいる。 それだけが今の、確かな現実に他ならない。

未来は、変わった。

「ああ、そうだな・・・・・・びっくりさせて、悪かった。御免な」

やっと腕を解き、身体を離した後、戸惑わせた事をほんの少し、ばつが悪そうな様子で詫びる。

「別に謝ることは、ねえさ。ちょっと驚いたけど、でも・・・・お前がそれだけ、俺らのこと気に掛けてくれてたって、事だもんな。」

そう言うと、狼玩はいつもの明るい笑顔を浮かべ、カラカラと笑う。

「・・ああ、兄さんお帰りなさい。僕、今度の個展の会場のことで打ち合わせの電話、 入ってたもんだから・・・・・会合、どうだった?」

そこへ、電話を終えたらしい藍燕が部屋から出てきて、兄の帰宅を知り声を掛ける。

「おう燕、ただいま。お前も準備、着々と進んでるみたいだな?・・・・ああ、うん・・・会合はまあ・・そもそも仕事の事だしな、楽しいもんじゃあなかった。
はっきり言って、退屈で」
お茶を入れてきて隣に座った弟の問いに、半ば適当に答える。

「あァ・・・会合と言やァ昼間の電話、アレ一体何だったんだよ藍翔?・・・まあ結局、 あんな事故まともに見ちゃったもんだから映画見る気にもなれなくて俺ら、
あれからすぐ帰ってきたし、お前も何のCD買うんだか言わずに電話切ったから判んなくて買いにも行かなかったんだけどよ?」

その兄弟の会話にふと思い出したように狼玩が、電話の件を尋ねてくる。

「ん、ああ・・・・・・いやな、実は俺前からずっと気になってた欲しい曲があってさ・・ ・・でも曲のタイトルとか、歌手の名前とか、何で聞いた曲だったのかとかが、
はっきり覚えてなくて・・・・・それをあの時急にパッと思い出したんで、覚えてるうちにお前に探してもらおうかと思って、それでさ。洋楽だった筈だから多分お前に
直接言えば、判るんじゃないかと思ってな」

“リアン”との約束があるため、決して本当の事情は明かせない。
だから藍翔は電話の後からずっと辻褄が合うように考えていた、「弟ではなく狼玩に直接電話を掛けた理由」を説明する。

「はッ、何だそりゃ?・・・・・・というかお前、仕事の会合の途中でそんなのわざわざ電話してくるとか、結構不真面目なんだなァ・・・・・意外だ」
「ええ、兄さんそんな事であの時電話してきてたの、玩に?・・・ええー、兄さん仕事の事には物凄く真面目だと思ってたのに、僕も凄く意外だよ、それ」

勿論、狼玩も藍燕もまさか自分達が本当はどうなる筈だったかなど知っている訳も無く、もしやあの事故に巻き込まれていたのかもという可能性は
目の前で起こってから初めて気が付いた事だったので、そんな事後でゆっくり連絡すれば良かったのに、とその時には思ったようだ。

「はは・・・・十一時半前の回に見に行くって朝、燕から聞いてたからさ・・・・・・ 映画見てる間は携帯切らなきゃいけねえ筈だし、俺のほうは十二時からが
昼飯の休憩だったんで、あの時じゃないと連絡取れにくい気がしてたんだよ、だから。それに思い出したら取り敢えず早く言っとかなくちゃって、気になって
しょうがなくて・・・・・横に部長いたから、まさか書類に書き留めとく訳にも、いかなくってさ」

結構不真面目なんだ、意外だと何処か呆れたようなそんな言葉でさえ、今は言われても全然、構わない。

「ああー、なるほどな。まァ、そういう気持ちは俺にも判らんでもないか・・・・それでもそんなのの為にわざわざなァ・・・・・あれ、トイレからだったんだろ?
水流す音、聞こえたぞ。・・・・・・けど、もしあの時藍翔が電話してこなかったら俺ら、多分・・・・ ・・物凄い偶然かも知れないけど、結果的にはあの時お前が
電話くれた事で、俺らあの事故に遭わずに済んだって事なのかな、なあ燕?」

事故現場に差し掛かる手前で着信に気付き、歩きながらだと雑音を拾ってしまうと思い、 まだ目的地への時間的にも少し余裕があったのでその場で足を止めて出た。
それが結果的に、難を逃れられた事実へ繋がった。

あの時、もしもそのまま歩きながら応答していたら。
或いはもしももう少し早く、食事をした店から出て映画館へ向かっていたとしたら。

自分も藍燕も、恐らく今ここにいる事は出来なかった。大怪我をしていたか、或いは。

その、ちょっとした「偶然」が幾重にも折り重なり、守られた事には狼玩も薄々、気が付いていた。

「・・・・・んん、そうかも・・・知れないね・・・・でもニュースで見たけど、あんな事故でも亡くなった人がいなかったらしいのはホント、奇跡だよ。
怪我した人も、皆無事に良くなって欲しいね」

元の未来で事故に巻き込まれた被害者は狼玩と藍燕を含めて十人だったが、通りかかっていた位置の関係か何かで、藍燕を含めてかなりの重傷者は
数人居たがあの場で命を落としたのは狼玩だけだった。
だから藍翔も昼に見たニュースで死亡者の報道は無く、被害者の数も八人だった事は既に知っていた。

「・・ああ、そうだな・・・  ・・で、話戻すけど結局何のCD探せば良かったんだ?近いうちに俺また、新作買いに行く予定あるから言っといてくれれば
その時についでに探してくるけどさ?」
「ん、ああ・・・・・・ええとな、何だっけ・・・・・・・あー・・・・去年くらいだっけな、スポーツカーのコマーシャルで流れてたやつなんだけどさ。確か・・・日本のメーカーの。
なんか結構カッコいい感じの、ロックの曲で」

CD購入を頼みたかったというのは電話をしたときにとにかく現場から離れて欲しくて咄嗟に思いついた口実だったし、狼玩に電話をしてしまった理由も
辻褄合わせの為に考えたので、別に特に好きでも欲しいわけではなかったのだが、繰り返しTVで流れていて耳にも残っており、咄嗟に思い出せたものを適当に答える。

「ええ?去年の日本車のコマーシャルのでカッコいい系のロックで洋楽・・・・?・・・ああ!何だよ、それなら改めて買わなくても俺、持ってるぜ?アレ、俺が大好きな
バンドの曲だったからな。・・・なんだァ、そんなので良かったのか、じゃあ今度持って来てやるよ」

洋楽にはあまり明るくなく、TVのコマーシャルで聴いた曲くらいなら欲しいと思ったと説明しても不自然ではないだろうと思っての事だったが、まさかそれが偶然にも
狼玩の好きなバンドの曲だったとは。

「・・・え、あ・・・ああ・・・へえ、そうだったのか・・・・・・お前の好きなバンド、だったんだ・・・・あれ」
「ああ、そうだよ。というか、前に話した事なかったっけか、俺?Diabolicって言ってさ、 アメリカのバンドでメンバー俺らよりちょっと年下だけど、ホント良い曲作るんだよ・・・・・
まあ、歌詞は英語だから大して解らんけどな、こっちじゃ輸入盤しか売ってねえし。 でもちょっと嬉しいなァ、俺が好きなバンドの曲、偶然お前も気に入ってくれたなんてさ」

元々は全くの口実と辻褄合わせの言い訳でしかなかったが、狼玩が何処か嬉しそうに、喜んで話す様子を見ていると今度CDを貸してくれると言っているし、
ちゃんと興味を持って聞いてみようかなと、そんな気持ちにもなってきた。
今まで洋楽は余り好んで聞いた事は無かったが少なくとも自分の中で嫌いな類の曲ではなかったからこそ耳に残っていたのだろうし、親友が好きなものなら受け入れても良い筈だ。

「はは・・・・・TVのコマーシャルで使われるくらいだから、お前の言う通りやっぱいい曲って事なんだろう。まあ、急ぎはしないからいつでも良いけど、他の聞いてみるのも
楽しみにしとくよ」

今日は、今までよりも彼と話しているのが本当に楽しいし、嬉しい。
どんな些細な事ですら、こんなにも幸せだと感じたのはどれくらいぶりの事だっただろうか。


その日は友人と遊びに行った狼玩の弟も外で夕食を済ませて帰る予定らしいからと 狼玩は藍翔の家で夕食までを一緒に過ごし、少し酒も入って上機嫌の彼を
タクシーに乗せて帰っていくのを見送った後は、個展の開催も控えている藍燕は再び自室で作品作りに取り掛かり、狼玩との付き合いに自身も少し飲んでほろ酔いの
藍翔はお気に入りの映画のビデオをぼんやりと見ながらただのんびり、寛いで過ごした。

合間に、作業に没頭している弟に茶を入れて呼び、他愛の無い会話で適度な休憩も取らせてやったりしながら、ただただこれからもずっと藍燕の為に善き兄でいたいと、
そんな事も考えつつ。

そしてある程度予定していた部分の作業も終え、弟もすっかり寝付いて静かになった深夜。

もう酔いもすっかり醒めた藍翔はふと思いついてもう一度、”リアン”の電話番号に電話を掛けてみる。
もし繋がったら一言、礼を言いたかった。
決して誰にも言う事は出来ない、「全てを取り戻せた感謝の気持ち」をせめて彼にだけは伝えたいと、ただそれだけを思っての事だったのだが・・・。


“・・おかけの番号は、使用されていません 番号をお確かめ下さい・・・”


しかし、何度掛けてみてもこの間とは違い、かけた途端に存在しない番号や間違いの場合に応答する、電話局のアナウンステープの声が聞こえてきた。

気になって電話帳を取り出し、ずっと見ていっているうちに、愕然とする。
番号を聞いたのは夢の中だったとは言え、藁にもすがりたい気持ちもあってその時は全く気には留めていなかったのだが、改めて調べてみるとこの香港には
「409」という局番自体、存在していなかった。
しかし香港以外の地域にかけるには、必ず所定の地域番号をつけなければ繋がらないから、もっと多い桁の番号でなければ今みたいなアナウンスが出るだけの筈だ。


元より存在しない局番の、電話番号。
あの時繋がった先は、一体何処だったのだろう。
“リアン”とは、一体何者だったのだろう・・・・・・。


急に何か、人知の及ばぬ領域に踏み込んでしまうような気持ちが沸き起こり、考えるのを止める。
追求してはいけないように、感じる。

あれは本当に現実だったのか、それともあの悲しい三ヶ月余りの時間が実は全て自分の見た予知夢のようなものだったのか、真実は終ぞ判らないが、
少なくとも今自分は「元通り」の生活を送れている。
物静かだが明るい弟がいて、いつまで経ってもヤンチャ坊主のままのような部分のある陽気な親友もいる、今までどおりのごく普通で、楽しく幸せな生活。
これで良いんだ、今あるのが紛れも無い現実なのだと思い直して受話器を置き、電気を消し寝室へ行って床に就く。


ええ、それで良いのですよ、と誰にも聞こえない声で呟いて微笑むリアンの姿が窓辺にあり、やがて一匹の蛍となって開けた窓の隙間から、夜空へ飛び立っていった事を
知る者は誰もいなかった。




劇終


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