※注)この話は一応パラレル設定です。
蜀の国があって劉備の下に既に馬超もいますが、キャラの年齢は作者の趣味により劉備32歳、関羽31歳、
張飛26歳、孔明22歳、趙雲25歳、馬超26歳(張飛と同い年)etc・・・
・・・ストーリー的に40代以上の設定では書きたくなかったもので(泣)・・・スイマセン我儘で。先に謝っとく。
そんな訳で年齢設定とかはヒジョーに無双っぽいですが、ビジュアルはあくまで横山っつーことで・・・・。

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絆〜He's lost from the world〜


張飛はもうずっと身動き一つせず、椅子に座ったままで一心に祈っていた。
目の前の寝台の上でただ静かに眠るのは、彼にとって何より大切でかけがえの無い義兄(あに)・関羽。
額に白い布で包帯を巻き、一部には赤黒く滲む血の跡も伺える。

関羽は四日前、戦の最中に敵兵に不意を突かれて落馬し、近くにいてそれに気付き咄嗟に助勢した張飛の尽力で何とか
命だけは助かったものの頭を打って傷を負い、そのまま深い眠りの淵に沈んだまま、もう四日目を迎えようとしていた。

関羽が怪我をした事を知った劉備はすぐに名医を手配して大切な義弟の傷を診せ、医者も「命に関わる怪我ではない」と
はっきり診断したのに、時間が経っても何故か関羽の意識は一向に戻る気配を見せず、皆心配を募らせていた。

中でも、とりわけ張飛の心配ぶりはもはや見てる側が辛くなって来る程だった。

毎日、本当なら目が無いはずの酒を一切、ただの一滴すらも飲まないばかりか、食事さえもろくに取らずに関羽の居室に詰めては
寝台の傍に付き添い、眠りから醒めない義兄の手を取って擦ったり、その日にあった出来事やふと思い出した昔の話を語りかけてみたり、
はたまたそのどちらでもない時は食事も取れないままの義兄の命を繋ぐ為、果汁の取れる果物や茶を取り寄せると椀に注いで口元へ
運び、少しずつゆっくりと時間を掛けて懸命に飲ませていたりすることもあった。
とにかく余りに根を詰めている様子で、見かねた趙雲や馬超など、張飛が友と認めて親しく付き合っている仲間が半ば無理にでも誘って外へ
連れ出さない限り、自分からは決して義兄の傍を離れようとはしない状態だった。

そして、ついに迎えた四日目の朝、いつものように傍に付き添って義兄の手を握り、そっと擦っていた張飛は、突然その手に力が篭って
自分の手を握り返して来た事に驚き、慌てて両手でそれを包み込むようにしてしっかりと握り直していると間もなく、関羽の両の目蓋が
ゆっくりと上がる。
その瞳はまだぼんやりと天井を見据えたままだが、やっと意識を取り戻したのだ。張飛の両目からはもう、涙が溢れて止まらない。

「・・・ああ・・・!!・・・・・・・兄貴、兄貴・・・!!・・・・やっと・・・・・、目が覚めたんだな、・・・・・凄く、心配したんだぞ・・・!!
でも・・・・これでもう、大丈夫なんだな・・・!・・・・あは・・・・・ッ、良かった・・・・・・」
張飛は関羽の手を握ったまま、涙でグショグショの顔で無理に笑って、何より待ち望んでいた義兄の回復を心から喜ぶ。

「・・・・お主は・・・・・・誰・・・・・・?・・・・・・・兄貴・・・・?・・・・・・・・それは・・・・・・私の・・・ことか・・?」
だが―――――少し間をおいて返された関羽の反応は、まるで予期しなかったものだった。

大切な義兄がようやく意識を取り戻して安堵したのも束の間、張飛は突然真っ暗な谷底へ突き落とされたような
激しいショックと絶望感に苛まれていた。

深い深い眠りの淵から帰還した関羽はもう、自分の知っている彼ではなかった。
現実だとは信じたくない、余りに悲しい結果。

「え・・・・、・・なに・・・・言ってんだよ・・・・・・・・兄貴・・・・?・・・・・雲長・・・!・・・俺だよ・・・・お前の、義弟(おとうと)の・・・・
張飛だよ・・!俺が・・・・分からないのか・・・?・・・・・悪い・・・冗談は、・・・・よしてくれよ」
何も信じたくない、信じられないという表情で茫然としたまま、張飛は震える声で病床の義兄にまくし立てる。

「雲、長・・・・?・・・・張、飛・・・・?・・・・・・・・申し訳、ない・・・・・・・・・本当に、何も・・・・・分からない・・・・・」
まだ起きる事は出来ないので寝台に横たわったまま弱々しく答え、そしてひどく済まなそうな表情をして関羽は
目を伏せる。
そこにはいつも自信に溢れ、強く優しい風格を漂わせていた義兄の姿など、もはや欠片すら見当たらない。

張飛の中に残っていたほんの僅かな希望さえも、その瞬間には全て音を立てて崩れ去った。

今目の前にいるのはもう、心から大好きで何より大切な相手だった義兄ではない。
同じ顔の―――――――別人。

自分の名前さえ失くしてしまった、一人の男。
関羽は、もう、いない。

余りのショックに張飛は目を見開いたまま立ち上がってヨロヨロと後ずさり、そして気がつくと部屋を飛び出していた。


関羽に、逢いたい。話を聞いて欲しい。
でも、彼は、いない。
張飛は、激しく混乱していた。


どうして義兄はいないのか、
自分はどうすれば良いのか。

自分は、何処へ行けば・・・・良いのだろう。
義兄は、何処へ・・・・行ったのだろう。


広い城の中をただ宛てなく茫然と彷徨い、やがてそのうちに義兄がいない事を急に強く実感してきて――――――
張飛は思わず、劉備の許へと助けを求めていた。

「・・・・兄者・・・・・・、 ・・・・・孔明軍師・・・・・・・・・・」
城の中ほどにある聴政殿で傍に諸葛亮とその他の侍従の文官たちを従え、君主の席にいる長兄の姿を見た途端
張飛はもう子供のように泣きじゃくり、その場に崩折れる。

「・・!!・・・どうしたのじゃ張飛・・・!・・・何が、あったのじゃ・・・・・!!・・・・まさか・・・、関羽がどうかしたのか・・・?!」

今まで決して、自分から関羽の傍を離れようとはしなかった張飛が突然やって来たかと思うといきなり泣き崩れた姿に、
劉備も諸葛亮も咄嗟にまさかの最悪の事態を想像し、二人とも慌てた様子で傍に駆け寄ってくる。

いくら医者は命に別状は無い傷だと診断していても、それはあくまで現代のように精密な医療器具を用いて詳しく検査を
した上で下された訳ではないものだ。
寧ろ、傷自体は確かにただの外傷であり正しい診断と手当てが施されても尚、療養中に破傷風やその他の感染症などを
引き起こして急に死に至ることさえ、決して避けられはしなかった時代の話だ。

そんな可能性も否めなかったからこそ、ただならぬ張飛の様子に余計に心臓はドキドキと、激しく脈打つ。

「・・・・・・・・・・・俺、もう・・・・・どうして、良いか・・・・・・・・・・・理解らねェ・・・・・・  ・・・・・兄貴・・・・やっと・・・・目を
覚ましたのに・・・・・・・関羽は・・・・・・俺の事もう・・・・・理解らねえ・・・・・・・・・・・・・・自分の事さえ・・・・・・何にも・・・・
もう・・・・・・理解らねェ・・って・・・・・ ・・・・・何で、だ・・・・・?・・・・・」

肩を落とし俯いて床に座り込んだ張飛はもう、まともには言葉すら続けられない程に激しく泣きじゃくり、しかしその原因が
一先ず関羽の命がどうにかなった事にある訳ではなく、それどころかやっと意識を取り戻したらしいという事実には劉備も
諸葛亮も一応はほっとしたが、途切れ途切れの言葉で一生懸命告げられたその後の事情を知った途端、張飛同様強いショックを
隠し切れない。

「・・・・・・つまり・・・・・・・・関羽殿は・・・・・・記憶を、失くされているという事・・・・なのですね?そうなのですね、張飛殿」
関羽が置かれているであろう状態を的確に表現する言葉で確かめるように聞き返してくる諸葛亮の声も少し震えている。
張飛はもう言葉も出せず、ただ嗚咽だけを漏らしながらその問いかけに首を振って答えるのが精一杯だった。


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「張飛はようやく、落ち着いて寝付いたようじゃ・・・・・・・・それにしても大変な事に・・・・なってしもうたな、孔明・・・・・・・
記憶を失うというのはいずれ、治る見込みはあるものなのか・・・?・・・・・それとも、もう・・・・・??」
ただでさえ根を詰めて関羽のそばに付き添い続け、相当に疲れ果てている事は明らかなのに更に強いショックを受け、
もう激しく泣きじゃくる事しか出来なくなっている末弟はとにかく今はゆっくり休ませ、落ち着かせる事が大事だと
判断した劉備は張飛に付き添って居室まで連れて行ってやり、義兄として傍にいて寝付くまで付いていてやってから、
再び戻ってきてもう一人の義弟が抱えた問題について、唇を噛み締めながら諸葛亮に尋ねる。

「ええ、我が君・・・・・記憶というものは、ほんの些細なきっかけで突然甦る事もあれば、如何なる方法を持ってしても
一生涯戻らぬままの場合もあったり、とにかく・・・・決まった薬を与え、養生さえすれば良くなる体の病のようなものでは
ございませぬゆえ・・・治る見込みがあるかと問われれば決して無いとは申しませぬが、それがいつになるかは恐らく
誰にも図りかねる事かと」
劉備の問いに答える諸葛亮の表情は硬く、もはや人為的にはなす術のない状況なのだと劉備も更に落胆する。

「そうか・・・・・・・だが、とにかく一度・・・・・・・関羽に会おう。いつも一緒だった張飛の事すらもはや分からぬのなら、
私が会うた所で何の足しにもならぬかも知れぬが・・・それでも何かもし、力になってやれることがあるならせめて
それだけでも、ちゃんと聞いてやらねばなるまい。張飛も関羽も二人とも私の大切な義弟(おとうと)じゃ、だから
私も義兄として、出来る限りの事はしてやるべきだろう」
劉備の言葉に諸葛亮も頷き、二人は関羽の居室に足を運ぶ。


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関羽は、寝台に横たわったまま天井を見据えて、ただぼんやりしていた。


「・・・・関羽殿」
まず、諸葛亮が傍に歩み寄り、そっと声を掛けてみる。

「・・・・?・・・・・・・・・お主は・・・・・? ・・・・私は、関羽という名・・なのですか・・・?先ほどここにいた彼は私を・・・・
”雲長”と、呼んだのですが・・・・・・」
返って来たのは以前の彼の人格など微塵も感じられない、どこか弱々しい言葉遣い。
そして突然声を掛けられて少し、困惑している様子も見せている。
目覚めた時よりは幾分か口調ははっきりし始めたようだが関羽はまだ、自分の名すらも理解っていないようだ。
全ての記憶を失くして混乱しているところに別々の相手からそれぞれ違う名で呼ばれたのだ、だから戸惑うのは
無理もない事なのかも知れないが。

「ああ、これは・・・申し遅れました。私は、諸葛亮と申します。・・・・・・・・関羽というのも、雲長というのも、どちらも間違いなく
貴殿のお名前なのですよ、関羽殿。・・・・・そうですね・・・・・、”関羽”が本名なのですが、無闇に本名を呼ぶのは良くない事と
されている慣習がありまして・・・・その為に、男子は成人すると大抵"字"と呼ばれる呼び名を持つのです。それが、貴殿の場合は
「雲長」という名なのですよ。・・・ただ、字で呼び合うのは同列で親しい間柄同士の場合が多いですから、残念ながら以前も
余り個人的なお付き合いを結んではおりませんでした私は敢えて、敬称を付けた本名の方でお呼びさせて頂きました。ですが貴殿は
私より年長者ですから、私に対しては遠慮なく「孔明」と、字でお呼びくださって構いませぬ」

自分の顔を見てもまるで心当たりがなく、名前の件にも戸惑っている様子から、諸葛亮はまず名を名乗り、それから二つ名の事実も
簡単に説明して安心させてやる。

「ああ・・・・そう、ですか・・・・・・・・そういう事でしたか・・孔明・・・殿。・・・私の名は、関羽で・・・雲長は呼び名、か・・・・・・あの・・・・
先ほど、ここにいた者は・・・・あれは、私の・・・弟・・?・・・彼は、弟だと・・・・・・・・言いましたが」
一先ず名前の件は説明を受けて納得し、安心したようだったがすぐに関羽は、次の質問を投げかけてくる。

張飛の事だ。

「ええ・・・・ああ、その事は・・・・・私よりも、貴殿の兄君から直接お聞きになられた方が、宜しいかと存じますよ。
・・・・兄君も今、おいでになられておりますがお会いになられますか?」
"弟"だと名乗った相手以外に兄もいるのだと聞かされ、関羽は戸惑いながらもとにかく会ってみたいという気持ちは強く、
諸葛亮の言葉に無言で頷く。


「・・・・・関羽」
諸葛亮に促され、劉備は恐る恐る寝台の傍に歩み寄って呼びかけると、関羽は劉備の姿を目にした途端
ハッと驚いたような表情に変わり、何かを考え込むように一旦視線を落としてからようやく、言葉を発する。

「・・・・・・兄、者・・・・・・、・・・・・・兄者・・!」
まるで予期しない言葉だった。
それは紛れもなく劉備がもう長い間聞き慣れ、この世で関羽と張飛にだけ許した自分への呼び掛けの呼称。

「・・・関羽・・・?・・・お前・・・・私が、解るのか・・?記憶が、戻ったのか・・・?・・・・・そうじゃ、私はお前の義兄(あに)だ・・・・・・
・・・他には?・・・・他には・・・何を思い出した?・・・・何が、理解る・・・?」
義弟の手を取り、劉備は自分を兄と理解った関羽の言葉が嬉しくて大きく期待を膨らませるが、すぐに返ってきた答えを
聞くや否や、再び落胆する。

「・・・・・兄者・・・・・・・・申し訳、ござらん・・・・・・・・・兄者のお名前は・・・・・なんと、申される・・・・?・・・・・・・・あなたが私の
兄者だと言う事はちゃんと理解って、いるのに・・・・・・しかし・・・・・・お名前が、どうしても・・・・・・思い出せぬのです」
最初に張飛と言葉を交わした時や、先ほど孔明と話した時と比べるとほんの少しだけ、関羽の物腰は変わったようだった。
恐らく劉備を兄と認識したときに人格面の記憶もほんの少し、一緒に戻ったのも知れない。

だが、肝心の部分はまだ全て欠落したまま。
目の前にいる人物を兄とは呼べるのに、その相手の名前は判明らない。
どれほどまでにもどかしく、辛い事だろう。

「良いのだよ、関羽。気にせずとも良い・・・・私の名は、玄徳だ。・・・姓名は劉備で、字が玄徳。・・・・・・お前は、
昔から私を名で呼ぶことはほとんどしておらなんだからのう、だから・・・名を思い出せぬでも、仕方がない」
劉備は、自分の名が思い出せないばかりに申し訳なさそうに目を伏せ、落ち込んでいる様子の関羽を安心させるように
優しく笑んで慰めると、ようやく関羽も僅かだが表情を和らげる。


「兄者」

そして再び発せられた、声。

「・・・私には、弟も・・・・・あるのですか?目覚めた時、傍にいた彼は・・・・・・・・・張飛、と名乗った彼は私を・・・・・、
兄貴と呼んだのですが・・・?・・それに私は何故、怪我を?一体、私の身には何が・・起こったのでしょうか・・・・・
私は一体、何者でしょうか」
さすがに、自分が目覚めた事に涙まで流して心底喜んだ様子を見せ、その後余りに狼狽して部屋を飛び出していった
張飛には関羽も何か心に引っかかるものがあるらしく、何処か思い詰めた様子で尋ねてくる。
一先ず自分は今目の前にいる人物の義弟だと言う事だけは僅かに思い出し理解出来たが、本当はどういう人間なのかは
未だ、分からないまま。

関羽(雲長)と言う名前の自分は一体どういう立場にあった、何者なのだろうか?

「ああ・・・・・・・張飛か・・・・・そうだ、張飛は我らの義弟(おとうと)だよ。私とお前、張飛の三人は、随分昔に誓いを
交わした義兄弟でな。尤も、お前と張飛は余と出会う以前から既に義兄弟だったんだが・・・・・・・・そしてお前は四日前
戦の最中に落馬してその傷を負い、そのままずうっと眠ってたのだ・・・・・だがまあ、今すぐには色々言ってもまだ頭が
追いつかぬだろうし、とにかくようやく目が覚めて、本当に良かった。これからの事はまたじっくり考えればよい。今はまず、
しっかりと養生して傷を治し、早くまた元気になってくれれば、それで構わぬからのう・・・・・」
何も判らず思い悩んでいる様子を察し、精一杯の優しい表情で簡単に答えを返し微笑った劉備に、関羽の心も少し
落ち着きを取り戻す。

(そう、か・・・・私は、戦に出るような立場の人間だったのか・・・・・しかし、兄者はなんと、お優しいのだろう・・・・・・
まるで包み込まれるように広く、温かいお心をお持ちの御方だ・・・・・・今は何も思い出せはしないが、何故兄者と
義兄弟(きょうだい)になったのかは、何となく理解るような気もする・・・・)

“余”と言う一人称と上等な着物や飾り帯、冠を身に着けたその姿から、”義兄”の劉備は高貴な身分にある人物なのだという
事実は既に関羽にも理解り始めていた。
しかし、例え身なりは高貴でもその内面は決して身分に奢ってはおらず、素朴で温かな優しさがそこかしこから感じられる。
自分はきっと彼の人柄に強く惹かれ、彼を慕って義弟となったのだろう。

全てを失い、ただ不安だけに満たされていた心にようやく一縷の拠り所を得られ、何処までも無限の優しさを持つ義兄の与えて
くれる安らぎに心を委ねたまま、関羽は目を閉じ、またしばらくの眠りに就く。


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「・・・・・・兄者、翼徳は何故私の事を避けるのでしょうか?・・・・私は、彼と話をしたいのに・・・・廊下を通りすがった姿を
見かけて呼び止めても、ここへ呼んでくれるように誰かに頼んでも、まるで応じては貰えず・・・・・・・・私はなにやら、不安で
堪らないのです。・・・・もしかして翼徳とは折り合いが悪かったのでしょうか、以前の私は・・・・今は何も覚えていないし
思い出せないだけに、もしそうなら私はとても、辛い」

怪我をして十日ほどが過ぎるとようやく外傷は癒えて頭を打ったことに因る眩暈も治まり、起きられるようになって少しずつ
読書をしたり、部屋にある”自分の持ち物”を一つ一つ眺めたりすることもし始めた関羽はある日、政務の合間を見計らって
見舞いに訪れた劉備にそんな質問を投げかけた。
――――張飛の字や彼についてのある程度の情報を教えたのは劉備自身だったが、字を知った途端、今や人前でも
当たり前のように何憚る事もなく「翼徳」と口にするその姿は、否が応でも今の彼が以前の事を全て忘れ去ってしまって
いる事実を改めて深く思い知らされる。

「それはな・・・・・・張飛にはまだまだ、沢山の時間が必要なのだ・・・・だがひとつだけ、私にも言える確かな事がある。
お前と張飛は決して・・・・・折り合いが悪かったなどと言うことは万に一つもない。それだけは確かだから、これからはもう
そのように深読みして思い悩むのはよせ、関羽・・・・・・孔明から聞いたのだが、失くしてしまった記憶というのは無理に
取り戻そうと焦るのは反って良くないのだそうだから・・・全ては、時に任せるしかあるまい。今はまだあれも頑なになっておる
ところがあるからすぐには無理かも知れぬが、いずれ時が経てば張飛の心にも今のお前のありのままを受け入れる余裕が
出てくる日も必ず、来るだろう」

張飛の事で余りに思い悩んでいる様子の関羽の心中を思うと痛ましく、劉備は出来れば自分が知っている限りの、二人の間に
ある真実を話してやりたい気持ちは捨てられなかった。
しかし、聞き伝てに”真実”を知ったくらいで安易に解決出来るほど、彼らの間――特に張飛、にあるものが簡単な感情でない
ことは十分理解ってはいたので敢えて詳しいことは言わず、ただ不安を和らげてやる程度の言葉で励ますだけに留めておく。

「はい・・・・・兄者がそう、仰るのであれば・・・・・・ただ、私と翼徳は折り合いが悪かった訳ではないのですね?それを聞けたら、
少しは安心出来たような、気もします。・・・・・・有難うございます、兄者」

義兄の言葉を素直に受け入れ、和らいだ不安にふっと見せた優しい笑みは恐らく、かつては張飛の前で一番見せていたものだろう。
勿論劉備も義兄弟となってから共に様々な苦労もしてきた間柄なので今まで一度も彼のそういう表情を見たことがなかった訳では
ないが、例え形は義兄弟でも最初から自分を主と仰ぐ意思を持っていた関羽の態度は常に冷静で礼儀正しく、その為彼が自分に
対しては決して越えない一線を保ち続けている事にも気付いていた。

平たく言えば、関羽はこれまでただの一度も劉備に対して、「弟らしい」態度で振舞った事は無かっただろう。
劉備・関羽共に義兄として慕い、甘え、純粋奔放に振舞ってきた張飛に比べて関羽の心には常に、自分は劉備の義弟であるより前に
従者であるというその事のほうが何倍も先に立っている感じしかなかった。

余りに心を痛めている関羽が不憫でならず、その苦しみを少しでも和らげてやりたいと思う気持ちから劉備は忙しい政務の
合間を見てある日の夕刻張飛を呼び、二人だけで腹を割って話し合い、出来る限り諭してみようと考えた。
「・・・・兄者、俺に話って・・・・何です?」
人払いをして劉備一人しかいない部屋に現れ、軽く拱手で挨拶した張飛はその静けさにどこかぎょっとした様子を見せ、そして
訝しげに尋ねて来る。
「のう、張飛。お前は何故、そこまで頑なに関羽の要求を拒むのだ?・・・・・・・勿論、私もお前と関羽がどういう関係であったかは
知ってはおるし、お前が関羽があのようになってしまった事で、それはどんなにも戸惑っておるのだろうと言うことも解らぬでは無い。
・・・・・・・だが、だからと言って今のお前の態度は、余りにひどすぎはせんか?既に目に見える傷は治ってはおるが、今の関羽は
言ってみればまだ、見えぬ部分には傷を負っている病人と同じなのだぞ?・・・・・・関羽はのう、お前が自分を避けるのは自分に
何か折り合いの悪い部分があった所為かも知れぬと、それは酷く気にしておるのだ。だからせめて一度きちんと関羽と会うて、
話をする機会を持つ事くらいは出来んか」
劉備の言葉を聞いた途端、張飛は少し不愉快そうな、ばつが悪そうな複雑な表情を浮かべ、すっと目線を落とす。
だがもう、長兄でもあり主君でもある劉備にここまで言われ、諭されてはそれ以上拒否することはさすがの張飛にも出来ない状態だった。
「・・・・・・解りました。関羽に・・・・会って、話くらいは・・・します、俺。」
短い言葉で返された答えはお世辞にも快いものではない感じはあったが、心を痛めている関羽の様子ばかりが頭にちらつき、
とにかく何とかしてやりたいと思う気持ちに囚われていた劉備はその時、張飛の心の中までしっかりと見抜くことは出来ていなかった。


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翌日の昼間、劉備が都合を見て関羽を自分の居室へ呼び、それから張飛を呼んで来させてようやく、関羽の回復後初めてまともに
二人が対面することになった。

「翼徳」
そして張飛が現れ顔を見た途端、関羽の口からは自然に、彼の名を呼ぶ声が漏れる。

「・・・・その呼び方、金輪際やめてくれねえか、関羽・・?・・・・・・俺・・・・・・・今のお前から・・・・・そういう風に呼ばれるのは、嫌だ。
・・・・・・お前は・・・・・今のお前は、俺が知ってる関羽じゃあ、ねえからよ・・・・だから俺、今のお前の事はこれっぽっちも、兄貴だなんて
思ってねえ。顔と名前が同じだけの、全くの別人だ。・・・本当に・・・・・・なんもかんも全部・・・・・・忘れっちまったんだなお前、もう・・・・・・・」

しかし劉備に諭されたがゆえ、渋々ながらも承諾しただけだったというのが心の根底にある張飛は関羽が字で呼びかけた途端
くっと彼の顔を睨みつけ、挙句苦々しげに否定の言葉を返してきた。
その瞳にはあの日目覚めた時に見せていた、自分を想い涙を流すほどに溢れ出していた親しげで強い感情はもう微塵すらも感じられない。

そこにあるのはとても冷たい、眼差し。
今まで一度たりとも、彼が関羽に対して見せたことはなかったものだった。

「・・・!!・・・・これ、張飛!!お前は、何という事を言うのじゃ・・・!!・・・関羽とて、何も望んで記憶を失くしたわけではないことくらい、
お前も十分理解っておる筈ではないか・・!それなのに幾らなんでも、今のは余りにも言葉が過ぎるぞ?!」
予期せぬ末弟の言葉に、劉備は思わず声を荒げて彼を叱責する。

だが、それをすぐに関羽が制止する。
「・・・・いえ・・・・・・もう、良いのです兄者・・・・・・・・・恐らく彼の、言う通り・・なのでしょうから・・・・今の私がどんなに親しく接しようとしても
翼・・いや、張飛・・には、決して受け入れてもらえない何か、大切なものを・・・・私は、失くしてしまっておるのでしょう・・・・・・・・・・・・・
・・・・・ずっと不愉快な思いをさせて済まなかったな、張飛」
そう言って寂しそうに僅かに微笑った関羽の姿だけは、紛れも無くかつての彼と同じだった。
でも、それ故に張飛の心にはただ、想いの伝わらない辛い気持ちが渦巻くだけ。
そのまま張飛はぷいっと踵を返し、振り返ろうともせずにそのまま自分の居室へ戻っていく。


悔しかった。


心から愛し合っていた筈の義兄は、劉備には一目会っただけで彼が自分の義兄だという事はちゃんと思い出せたと聞いたのに、
目覚めて真っ先に顔を見た自分の事は何一つ、思い出してはくれなかった。

そして―――――何より辛く悲しいのは関羽が自分と出会ってからのずっと長い間、決して字を呼ぼうとしなかった事実に隠されていた、
悲しく切ない深い理由。
かつて、自分と出会う少し前まで関羽には、今の自分と同じ"翼徳"という字を持った幼なじみの親友がおり、しかし彼は暴れ馬から
関羽の身を庇い、たった十七歳でその命を閉じてしまっていた。
以前その話を聞き出し、ようやく吹っ切れた関羽が初めて字を呼んでくれた時の喜びは、張飛にとって何物にも代え難い大きなものだった。

しかもそれは私的な場合にのみ表してくれていたものだったので、張飛にとっては関羽が字を呼んでくれる事はそのまま彼に愛されている
証のような、彼との間だけにある秘め事のような、とても大切なものになっていた。

でも、今の関羽にはそんな大切な思い出さえも、もう残ってはいない。
諸葛亮が教えた「慣習」としての知識に則り、義兄弟の張飛に対してはやはり字を呼ぶべきだと考えた、ただそれだけの理由で今や
人前でも当たり前のように、姿を見かけては「翼徳」と呼び掛けて来た関羽の姿に、どれほど強い憤りと悔しさを感じたことだろう?


彼がたった一人で長い間抱え続けていた悲しく大切な思い出さえも、今の関羽には欠片さえももう、残ってはいないのだろうか。


(・・・・・寂しいよ、兄貴・・・・・・・・・・・・・お前はもう、帰って来ないのか?傍に、いて欲しいよ・・・・・・・・こんなに、逢いてえのに)
灯りも灯さず、淡い月の光だけが格子窓から差し込む居室でごろりと寝台に寝転び、張飛はぼんやりと”義兄”の事を考える。
その手には羊の革で包まれた小さな瓶が一つ。

それは、今度の誕生日に”義兄”への贈り物にするつもりで、あの戦の少し前成都に来ていた旅商人から買った上質の髪油だった。
勿論、「美髯公」と渾名されるほどに長く綺麗な髭を何よりも自慢にしていた関羽はそんな手入れの道具も自分で選んで買ったものを
ちゃんと持っているのも知ってはいた。

だが、たまたま出掛けた市中で店開きしていた商人の露天を見つけ、面白半分に立ち寄ってみたところ西域産というとても珍しい、
透き通った小瓶に入れられたその油に一目で心を奪わた。
試しに少しだけ嗅がせて貰うと普段そういうものを使う事をせず、品質の良し悪しには疎い張飛にも明らかに良いものだと判る位芳しく、
それはなんとしても義兄に贈りたくて堪らなくなって、珍しいものだけあって値段も相当に高かったが張飛は必ず買うから絶対に他の人には
売らないでくれと商人に頼み込み、売ってもらう約束を取り付けておいてから二日ほど掛けて代金を都合してやっと、手に入れた品物だった。

しかしそれももう、無用のものになってしまったかも知れない。
誕生日は明日に迫っているのに、肝心の関羽はもう以前の彼ではない。

張飛にとって、記憶を失い自分を忘れてしまった関羽の存在はもはや死んだも同然のものでしかなかった。
いや、「彼そのもの」は今もちゃんと生きているだけに、内面だけが別人になってしまったその姿は目にする度辛さが募るばかりだった。
いつ元に戻るかは誰にも判らない、もしかすると永遠にもう、関羽は過去の記憶を失ったまま新たな人生を歩んでいってしまうのかも知れない。


敷布団の壁際を捲って包みをそこへそっと隠し、上掛けを引っ被った張飛は未だ還らぬ義兄への想いにただもう、声を押し殺して泣くだけ。


あの日、あの戦さえ起こってなければ。
もしくは、関羽と自分のいた位置が逆だったら。


今更何をどんなに悔やんでももう取り戻せはしないが何か一つ、ほんの僅かでも状況が違っていれば関羽は今も、以前と同じ彼のままで
いたんじゃないかとそんな気持ちだけは捨てられなかった。
もしかすると何かが違っていた場合、怪我をして記憶を失っていたのは自分だったかも知れない。
でも今張飛は、叶うならその方が良かったとさえ思っていた。元のままの関羽なら、例え自分が記憶の全てを失くしたとしても、
きっと変わらず大切にしてくれるだろう。

決して今の自分みたいに現実を拒絶する余りただ頑なになり、冷たい態度を見せるような事も彼ならしない筈だ。
張飛の知っている関羽と言う人間は、いつも全身全霊で自分を愛してくれた。
こんなに寂しい、虚しいと感じたことは、彼と知り合って義兄弟になってからは一度も、感じたことは無かった。

(・・・・・この世に本当に神や仏なんてものがいるんなら・・・・・・・どうか、どうか俺の兄貴を返してくれよ・・・・・・・元通りの兄貴にまた、
逢いたいよ・・・・・・・・・・心から俺を愛してくれる・・関羽によ・・・・・・・)
品物を買った日にどんなにも思い描いていた、関羽の驚き喜ぶ顔をただただ想像しながら、やがて張飛は眠りに落ちていく。

今までの事はすべて悪い夢で、目が覚めたら何もかもが元通りになってたら良いなと、淡い希望を胸に抱きつつ。


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関羽は肉体的にはもう完全に回復し、ただ依然として過去の記憶が無い状態では実際の戦場では何が起こるか判らないと言うことで
部隊指揮官の任からは外されたままになっていたが、記憶は失くしても身体で覚えた武術はどうやら健在のままらしく、回復して以降は
時折の昼間、城の奥庭で劉備から自分の物であると教えられた偃月刀を手に黙々と鍛錬する姿も見られるようになり、見た目にはすっかり
元通りの彼の姿に戻りつつあった。
また、他の将達の名前や容姿、性格もすぐに覚え、改めて少しずつ元通りの関係を築き始めている様子も見られるようになった。

ただ、そんな風に周りの状況は次第に戻りつつあっても、未だ張飛は彼を義兄だと受け入れられないままで、それどころか先日の
”兄貴じゃない”発言の一件があってからはもう、口を利くどころか顔を合わそうとさえもしない状態が続いていたので関羽は未だ、張飛が
何故それほどまでに頑なに自分を拒み続けるのかが判らず、その事だけはずっと心を痛め続けていた。

そんなある日の事だった。
昼下がりにもうすっかり日課となった独りの鍛錬を終え、一休みしていた関羽は遠くの回廊を、もはや一人では歩くことすらままならないのか
埃にまみれ、疲れ果てた姿で城内警護の兵士達に抱えられるようにして本殿に向かう伝令兵を見掛けてそっと後を追う。

武官でありながら戦場には出られない状況にある事を負い目に感じないようにとの配慮からか、未だ関羽には戦についての情報は
直接的には一切届かない状態になっていて、だが再び傷を負ったり万が一の事があってはいけないと劉備が心配してそういう措置を
取っているのだという事も理解ってはいたので、関羽は自身の不甲斐なさを感じると共に敢えて、それに従っていた。

そういった事情もあり、伝令兵の報告も本殿の外で人目を忍ぶように立ち聞きするしかなかった。

「・・殿、申し上げます・・・・!!西方十里に布陣した張飛将軍の隊が敵の伏兵に取り囲まれ、苦戦しております!!後方左右両翼に布陣の
趙雲将軍、馬超将軍にも助勢を請いましたが双方とも応戦中の為援軍ならず・・!!至急、援軍を・・・・・!!」

「何?!張飛が敵の罠に?!・・・それはいかん孔明、すぐに援軍を送るのじゃ!なんとしても張飛を助けねば」
伝令兵の報告を聞いて発せられた劉備の声は、いつになく緊迫している。

(なんと・・・・・・・・張飛が危ないと・・・?!)
そして、窓の陰に身を潜め、同じように伝令兵の報告する内容を聞いていた関羽の脳裏にふと、思い浮かんだのは戦場の風景。
―――兵達の咆哮や馬の嘶き、空を掠めて飛ぶ無数の矢などの音声までもが耳の奥に甦ってきて、同時に火矢が自分の周りを
激しく掠めて飛び、興奮して思わず立ち上がった赤兎馬から振り落とされた瞬間の衝撃が全身を駆け巡った途端、関羽の胸を走るのは
張飛への想い。

初めて出会った頃の、身体は大きかったがまたあどけなさの残るやんちゃな若者の顔立ちから顔に傷痕が増え、髪が伸び、髭が伸びて
今の彼になってきた過程での色んな姿が次から次へと駆け巡り、そのどれもが無邪気に笑って「兄貴」と笑いかけてくる。

突然の、急激な記憶の再生に思わず眩暈を感じた関羽は頭を抱え少し足元をよろめかせるが、間もなく今耳にした張飛の危機を思い出し、
丁度鍛錬の後で偃月刀もその手に握ったまま、今日はこれから少し騎馬調練もする予定だったので運よく既に鞍も付けて準備されていた為
厩舎へ直行し赤兎馬の手綱を取って跨ると、そのまま西方十里とだけ聞いた戦場を目指し一目散に走らせる。

「・・・!!あ・・ッ、か、関羽将軍一体どちらへ?!お待ちを!!」
呼び止める門兵の声にも耳を貸さず、関羽はただただ、馬を走らせ急ぐ。

(・・・・どうか、どうか間に合ってくれ・・・・・・わしが行くまで、決して死んではならんぞ、張飛・・・・・・・!!・・・・さあ赤兎よ、張飛の元へ
急ぎ走るのだ!!)
この時ほど、愛馬が希代の名馬・赤兎馬であったことを心強く感じた事はなかった。
偃月刀を握り締める手に、自然に力が篭る。

彼を、失ってはいけない。
誰よりも、何よりも一番大事な、宝物。
自分は彼を愛しているんだ。どんなにも強いその気持ちがやっと、関羽の中に完全に甦る。

そして脳裏に浮かび来る、戦場で血に塗れて既に息絶えた愛弟の姿を必死に振り払いながら、ただ真っ直ぐに前を見据え、
風を斬って走り続ける。

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「・・・・・張飛ィーーーーーッ・・・・・!!!わしが助勢するぞ、だからもうしばし頑張れ・・・!!」
伏兵の放った矢によって肩に矢傷を受け、包囲されてもはや退路も絶たれ、痛みを堪えながら応戦するしかない状態に陥っていた
張飛の耳に、遠くから風に乗って聞こえてきたのは、懐かしく愛しい、関羽の声。

(・・・・兄、貴・・・・・?   ・・・・・・・・へへ・・・・・・とうとう俺も、おしまいか・・・・・いる筈のねえ兄貴の声まで、聞こえるぜ・・・・・・)
蛇矛を振り回す度に肩の傷から血が噴出し、その度に激しい痛みが身体中を貫く。
配下の兵達も、戦闘の混乱と舞い上がった砂塵の中では一体どれほどの人数が生き残り戦っているのかさえ、まるで見当さえ付かない。

そんな状態で戦い続けている張飛の疲労は既に極限まで達しており、意識は朦朧とし始めていた。

だから、きっと今の関羽の声も逢いたい余りの幻聴なのだろうと、自分はもうこのままここで命を落とすのだろうと、もはや半ば本能的に
迫り来る敵兵の身体を刺し抜き、薙ぎ払いながらも覚悟を決めた張飛はふっと、自嘲う。

叶うならば、もう一度関羽に逢いたかった。
彼をまた、義兄と呼びたかった。

でもきっとそれももう間もなく、決して届かぬ儚い夢になってしまうのだろう。
お前を兄貴とは思ってないと吐き捨てた時の、関羽の寂しそうな表情が脳裏を掠める。
(・・・・・きっと・・・・・・・・・これは、報いなんだな・・・・・・・   ・・・・・・記憶は失くしても、兄貴は前と同じに、優しかったんだのに・・・・
俺の事もまたいっぱい、ちゃんと知ろうとしてくれてたのに・・・・・・でも俺が馬鹿な意地張って、兄貴じゃないなんて言ったから・・・・・・
だから天の神は俺を怒って・・・・・・   ・・・・・・・二度と、兄貴とは逢えなく・・・・・・・・しちまったんだろうな)
誓いを違えて自分がここで命を終えた事を知った今の関羽は、どんな気持ちを感じるのだろう。
今の彼の中には自分という存在は、どれほどのものになっているのだろうか。


もしかするともう、ずっと頑なに存在そのものを否定し続けてきた自分の事など、関羽とて諦めてしまっているかも知れない。


だが、激しい疲労と痛みに意識が一瞬途切れた瞬間、背後に迫り来る影の気配と共に・・・・一瞬にして周りにいた敵兵は次々と
朱に染まり、崩折れていく。

(・・・・?・・・・!・・・・・・)
今にももう消え失せてしまいそうな虚ろな意識を振り絞って傍に現われた人の姿を視界に捉えた途端、張飛はハッと自我を取り戻す。

そこにいたのは、赤兎馬に跨って返り血を浴びながら偃月刀を振るい、まるで鬼神のように敵兵をなぎ倒している関羽の姿だった。

「我こそは関羽雲長、義弟張飛の助勢に参上した!・・・・雑魚どもめ、命惜しくば即刻退けい!もし退かぬなら、全て我が偃月刀の
錆にしてくれようぞ!」
鎧も着けないままの姿で偃月刀を構えたまま、馬上でそう咆哮すると今まで形勢有利に勢いづいていた敵の兵士達は突然の
”蜀軍神関羽”の出現とその余りの迫力に急に恐れをなして蜘蛛の子を散らすように逃げ出し始め、やがて辺りには地に転がる
敵味方双方の夥しい数の死体が残るだけになった。

張飛の配下兵達も既にほぼ、全滅か或いはとっくに敗走して何処かへ逃げ去ってしまったようだ。

「・・・・・大丈夫か張飛、傷を負ったのか・・・・・だが、深くは無いようだ。こんな傷でよく頑張ってたな、偉かったな・・・・・・・
間に合って、本当に良かった・・・・お前にもしもの事があっていたらわしももはや、生きてはおれなかった」

(・・・・関、羽・・・・・・?)
そうして張飛の耳に届いた言葉は、もはや紛れも無く以前のままの、関羽のものだった。

しかしもう張飛の中にはその事実を改めて問いかける気力すら残っておらず、ふと訪れた安心感に意識が遠のき、
馬上で崩折れかけた身体を関羽がしっかりと抱き止める。

「・・・・・城に、帰ろうな・・・・・・・・さあ、おいで」
携えた偃月刀を地面に刺し、関羽は馬に跨ったまま張飛の身体を抱き取って自分の膝へ乗せかえると上衣の裾を
片手と歯を使って破り取って肩の傷をきつく縛り、片腕と胸でしっかり義弟の身体を抱いてから張飛の馬の手綱を赤兎馬の
鞍の端に結わえて、偃月刀を再び握り締め城を目指して駆け出す。

それからしばらく後、走っている馬上で僅かに意識を取り戻した張飛はぼんやりくぐもった視界に紛れも無く彼に間違いないと
認められる関羽の精悍な横顔を認め、力強く温かい胸に抱かれている安らぎに身を任せてそのまままた、眠りに就く。

どんなにも逢いたかった最愛の義兄の存在を、身体中で目一杯感じながら。


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「・・・・関羽、張飛ッ・・・お前たち、無事か?!」
城に戻った時、門兵から関羽が突然偃月刀を携え、険しい表情で赤兎馬を駆って飛び出していったと知らされた劉備と
諸葛亮が城門まで出てきて、不安げに帰りを待ちわびている所だった。

「・・ああ、申し訳ござらぬ兄者・・・・・・・幸いわしはなんともござらんが、張飛が肩に矢を受けて傷を負っておりますので、
至急手当てをお願い致す。わしが行くのがあと少し遅ければもう、間に合わぬ所でした・・・・・・さあ、張飛・・・・・もう城に
着いたぞ。すぐに傷も手当てしてもらえるからな、しっかりするんだぞ」
関羽の胸にしっかりと抱かれ、だが肩口を朱に染めてぐったりしている張飛の様子を見てすぐさま諸葛亮が命じ、兵士達が
運んできた担架で張飛は居室に運ばれる。

「・・・関羽・・・・お前、記憶が戻ったのか・・・・・?もう全部、戻ったんだな?」
「ん、記憶?・・・・・・ああ、そう言えば・・・・・・・・・なにやら、わしは長い間どうも、ぼんやりと夢でも見ておったような気が
しますわい・・・・・今となっては一体何がどうなっておったか、それこそ訳が判らぬのですが」
関羽自身、記憶が戻ったその時の状況が状況だっただけに無我夢中で、自分がしばらくの間記憶喪失にあった事実すら
忘れていたようだ。

劉備に問われてやっとそのことに気付き、少し困惑気味な笑みを浮かべて答えるその言葉で確かに、すっかり以前の彼に
戻っている事を劉備達にも伝わらせる。

「・・・そうか、だがとにかく記憶が戻って良かったな関羽。・・・・・それにしても、お前も随分と無茶をするものだ・・・鎧も着けず、
たった一人で張飛を助けに行くとは・・・・・・・・さあさあほら、お前も着物がすっかり血だらけじゃ。早く中に入って着替えをせい。
そうして張飛の手当てが終ったら、あとは傍についていてやれ。張飛にとっては、お前が傍にいることが何より嬉しい筈だからな」

「兄者・・・・・・」
劉備の優しい眼差しに照れがちな笑みで頷き返し、関羽は張飛を救えた安堵感をどんなにも実感していた。
かつて、自分を庇って命を落とした無二の親友と同じ字を持った、自分にとってはこの世でたった一人の義弟。
最愛の相手。

自分は彼を、救うことが出来たのだ。
何一つしてやれずに失うことしか出来なかった親友の分まで、張飛の命を守り抜けた。

関羽にとって、それはどんな褒賞よりも遥かに大きく得難い、喜びだった。

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「・・・・・張飛」
湯浴みをし、清潔な着物に着替えた関羽は張飛の居室を訪れ、傷の手当てが済み、痛み止めに少し強い酒を貰って寝ている
彼の傍に歩み寄ると枕元にそっと腰を掛けて義弟の髪に触れ、ゆっくりと撫でながら声を掛ける。
他の戦場に布陣し戦っていた趙雲、馬超もそれぞれにしばしの苦戦は強いられたものの何とか勝利を収めた後、急いで張飛が
戦っていた場所へ駆けつけたのだが、そこに残っていたあまりの惨状にてっきりもう張飛は助けられなかったのだと思い込んで
沈んだ様子で凱旋しており、城に戻って初めて、関羽の記憶が戻ったこと、そして彼の活躍で張飛がたった一人、生きて戻れて
いたことを知ると二人とも、まるで人目も憚らずにただもう、安堵と歓喜の涙に咽ぶだけだった。

「・・・ン、ン・・・・・・・・関・・・羽・・・・・・    ・・・・」
幸いにも傷は骨までは達しておらず、使われていたのも毒矢では無かったので命に別状は無いらしかったが、何分鏃が刺さったまま
激しく動き続けた為に傷口は熱を持ってジクジクと傷み、そんな状態ゆえに手当ても相当辛かったようで額にはうっすらと汗が浮かび、
頬には涙の跡も残っているのが認められる様子でただぐったりと、寝台に横たわっていた。

それでも手当てをした医者から聞いた話では、張飛は手当てを受けている間声を漏らさないように袖をギュッと噛み、懸命に痛みを
堪えていたそうだった。

「ああ・・・・・幸い、命には別状無いそうで、良かったな。ただ痛みが退くまでは今しばらく辛かろうが、しっかり養生して早くまた、
元通りの元気な姿を見せてくれ・・・・・・」
そう言葉を掛けて優しく笑んだ彼はもはや間違いなく、以前のままの関羽だった。

張飛はやっとどんなにも逢いたかった義兄が本当に戻ってきたのだと実感する。
そして、一度はもう死をも覚悟していた自分も何とかその窮地を脱し、生きて彼と再び逢う事を許されたのだと、理解する。

「なあ・・・・・兄貴ィ・・・・・・   ・・・・そこの壁際の隅、捲って見て・・・・・」
傷が未だひどく痛む所為か、怪我していない方の腕を動かすのさえ億劫な気分なので張飛はほんの少し目線と頭だけ動かして
枕元の壁際の隅を指し示す。

怪訝そうな表情は浮かべつつも言われるままに張飛の示した場所を捲ってみた関羽はすぐ、あの羊革包みの小瓶の存在を知る。
「ン・・・?何だ、これは」

「へへ・・・・・・・大分、遅れっちまったけど・・・・・・・・・兄貴への・・・・今年の、誕生日祝いだ・・・よ。・・・気に入ってくれると
良いんだけど、な・・」

返って来た義弟の言葉を聞き、包みを開けた関羽は思わず、あっとなる。

実は、関羽自身張飛が立ち寄る前にたまたま、少し前に注文していた新しい戦靴が出来たからと知らせが来たので市場に
出掛けていて、その道すがら目にした同じ西域商人の露店で同じ品物に目を留め、欲しいと思っていた。
だが、金額を聞いてみるとさすがにすぐには買うと決められず、だからその時は曖昧にその場を立ち去ったのだが、その後何とか
代金の都合を付けられそうな目処が立てられたので翌日また行ってみた時にはもう売る約束をした人がいるからと断られ、
予め買いたいと言っておくべきだったとひどく後悔し、心残りになっていた品物だった。

まさかあの商人が「売る約束をした」相手が実は張飛で、しかも自分への贈り物にする為だったとは。

「・・張飛・・・・・・お前これを・・・・わしに?」
全く思いもかけず自分の許へと巡ってきたそれをしばしじっと眺め、それから張飛の顔をまっすぐ見て、言葉を発する。

「・・・・・気に入って、くれたか・・・・?・・・・・それさ、一目見たとき絶対ェ・・兄貴に、持ってて欲しいって・・・・思ったんだ・・・・・・
凄く、綺麗だろう・・?滅多には手に入らねえ・・・・珍しいもの、なんだってさ・・・・・だから、どうしても・・・・・・それは兄貴に、
贈りたかった。・・・・俺の、大切な・・・・・・兄貴によ」
まさか張飛は、関羽が実は自分より先にそれを見つけていて欲しいと思っていたとは知りもしないので、傷は痛むものの
精一杯得意気な表情を浮かべて説明する彼が、関羽にはもうただただ、愛しかった。

「そうか・・・・・有難うな・・・・ああ、これは実に、綺麗な小瓶だな・・・・それに、何とも良い香りだ・・・・大切に使わせてもらうよ翼徳。
・・・・・愛してる」
自分達以外の存在が室外の至近にも無い事を確かめ、関羽は愛しい義弟の字を呼び、優しくそっと口づける。

「ウン・・・・喜んで貰えて、良かった・・・・おかえり、雲長・・・・・・・・・・大好きだよ、兄貴・・・・・・・・」
口づけを交わした後、張飛も本当に嬉しそうな様子で瞳を潤ませ、優しい笑顔を見せて笑ってくれた。

そこにあるのは、あの日目覚めた時に見せていた溢れ出す感情と同じ、自分への愛。
こんなに大切なものを、失くしてしまっていたなんて。

関羽はその日ずっと、付きっ切りで張飛の傍にいた。


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翌日。

「お早うございます、関羽様。・・・・おや、何か随分といい香りがしておりますな?自慢のお髭も今日は一段と艶が出て、
とてもお綺麗だ」

本来は武官として、主に戦役の場合に部隊を率いて戦場に出るのが役目である関羽にも一応、官位に応じて書簡に目を通したり、
書き物をしたりといった政務も日課として幾らかは課せられており、朝の身支度を済ませて政務室に現れた彼に早速周倉が声を掛けてくる。

「ふふ・・・・周倉、やはりお主にも分かるか?本当に、いい香りだろう?張飛から、誕生祝いの贈り物に貰った髪油を使ってみたんだ。
今まで色々な油は幾つも使い試してみたが、これは今までのどれよりも勝る、本当に良いものだったようだ」

すっと髭を撫でると、ふわりと芳しい香りが漂う。さすがに遥か遠い西域で作られたものだけに、普通にこの辺りで手に入る髪油とは
原料も製法も異なった珍しいものが使われているのだろう。

「おお、そうでしたか!それにしてもさすが張飛様ですな!関羽様が一番喜ばれるものを何よりきちんとご存知な上、品物を選ばれる
お目の高さもお持ちで・・・・・それにしても関羽様がまた以前と同じに戻られて、わしは本当に嬉しいです。お怪我をなされた
張飛様も一日も早くお元気になられると宜しいですな」
自分たちの本当の関係など露ほども知る筈は無く、それでいて無骨な周倉でさえもすぐに気付いて褒めちぎるほどに、愛する義弟からの
贈り物は上等で素晴らしいものだった。

勿論、張飛が自分の為に求め、贈ってくれたというその事実こそが、関羽にとっては品物の質以上の満足感を与えているのは間違いないのだが。

「・・おお、そうだ・・・・・・・・    そろそろ、この成都にもまた、市場に遠方の行商が来ておる時期だな。・・・・済まんが周倉よ、わしはしばし
買い物に出掛けてくるゆえ今朝の執務は後回しにするからな。・・・・・・病床の張飛に何か、精の付く美味いものでも食わせてやって、
少しでも早く元気にさせてやりたいのだ」
ふと窓から吹き込んだ爽やかな風に晴天の空を見上げて関羽はふと張飛の事を思い浮かべ、それから活気に溢れる市場の様子を
脳裏に描いて優しい笑みを浮かべ、関羽は切り出すと同時に、踵を返し執務室を出て行く。
「え?・・・あ、か・・関羽様お待ちを・・・・・・・わしもお供致しますよ」
思いがけない関羽の行動に慌てて後を追ってくる周倉の姿に笑みを浮かべ、関羽は執務を放棄して街へ繰り出す。
今はまだ眠っているであろう張飛の目が覚めたら、びっくりするほどの美味いものを買い集めてやろう。
自分にとってはこの世でたった一人、生涯を共にしようと約束しあった最愛の義弟の為に。



END

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2006.10.31 作
2011.05.12 移転UP


+コメント+
2年以上掛けてやっぱこんなんですか・・・・・orz
うーん、つくづく才能無いな自分。
色々書きたいことはあれど、いまいち上手く結びつかないものが多いので
書いても書いても駄作でスンマセン・・・・


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